マコトさんの旅日記、今回はボリビアから日本人移住地のお話です。
ボリビア第2の都市サンタクルスから乗合タクシーを3台乗り継いで 約140km離れたコロニア・サンファンという日本人移住地へ。
日本語で「サンファン日本人移住地」と大きく書かれた看板をくぐり、 どこか福岡県の農道に似た通りを歩きます…が、日本人の顔をした人が 見当たりません、、
「ITO小料理」という看板を掲げた食堂も休み。「小田食堂」も人が いない。ちらほらある商店、食堂はボリビア人がやっています。
んん、おかしいな?
と思いつつも2件ある宿のうち、川原さんというおばあちゃんがやっている という安宿(30B=450円)に決めますが、やはり日本人の方はいません でした。何故かNHKテレビの音声は聞こえてくるのですが。近くにある資料館や日本ボリビア協会にも行きましたがあいにく 日曜だからか休館、、誰にも会えないではないか!
ならば教会にでも行こうと寄ってみるとそこでサンファンに来て12年という 日本人のシスターの方に出会いました。久しぶりの珍客?の私を歓迎 してくれてこの街に関することや神についてなどいろいろと話して くれました。そしてすぐに何人かの日本人移住者を紹介してくれました。
ありがとうございます!コロニア・サンファンは主に長崎県の方々が1955年頃から移住を開始。
船で40日間、汽車1週間、車で数日間の長旅でたどり着き見た場所は 人跡未踏の原生林。雨が降れば道路は泥沼、トラ、吠え猿、巨大な蛇が 我が物顔でのし歩き、蟻の大群が家中を覆い尽くす…
日本政府のパンフレットには「ウクライナにつぐ世界第2の肥沃な大地」 と書かれていたようです。しかし移民者達はあきらめることなく斧を片手に農地の開拓に 乗り出します。切っても切っても果てしなく広がるジャングル。
車も馬も進むことが出来ない泥沼の道。旱魃と大雨で作物に甚大な 被害が及ぶ…開拓することこそが己の使命であると覚悟した彼ら には明日を信じて大自然に挑み続けるしかなす術が無かったのです。脱耕者と呼ばれる入植地を去った人も多くいる中、苦労、試練を 乗り越えて大農場主となった方々も少なくないようです。
今ではボリビア農業の心臓とも言える重要な食糧供給地となり、 日系人だけでなくボリビア人が多く生活する集落となっています。移住者の方々のご自宅を訪問したり、農場を見学させて頂きながら お話しを伺いましたが、大変な状況からの成功を少しも自慢する ことなく笑顔で語っていました。その懐の深さに脱帽です。
コロニア・サンファンに3日滞在して、さらに乗合タクシーを 2台乗り継ぎ、今度は沖縄県の方が移住して作った街、コロニア・オキナワへ。
今では第1~第3まで集落が拡大しています。三線、琉球民謡が大好きな私はこの地で三線作りをしている おじいちゃんに会えたり、日系人学校で三線の授業を子供たちと 一緒に受けたり超ラッキーでした。
でも三線もっと練習しなければ、、サンファン、オキナワで日系人の方々の優しさに触れることが 出来ました。ボリビアでこんな素晴らしい出会いがあったとは!!
- 一面に広がる大豆畑
これまでの旱魃、大雨の教訓から、サンファンの多くの日系人 農家は、米、大豆、とうもろこし、マンゴー、マカダミアナッツ など多品種生産を行ってリスク回避を行い経営が安定してきて いるそうです。今までの苦労を知らないボリビア人から嫉妬 されて嫌がらせを受けることもあるようです。また、先住民 有利の政策を進める現モラレス大統領はサンファンでの土地所有に 制限を加える法律整備を進めているとのことで、日系人にとって 向かい風となりそうです。
- 農場を長い時間に渡って見学させて頂いた日系2世のYさん。
1,000haの農地経営は赤米対策、水の確保など毎日が創意工夫 とのこと。素敵な家族に囲まれて大きな家で暮らす生活振りを 少しも感じさせない気さくな方でした。
- コロニア・オキナワ中心街
焼畑のため、終日モヤがかかっていました。 オキナワには900人の日系人、11,000人のボリビア人が 生活しています。サンファンとは違って中心街で商店を営む 日系人の方なども多くいました。