2007年5月アーカイブ

5/27 放送分 「宮本留吉の生き方」

明日、5月28日は、ゴルフ記念日。昭和2年のこの日に、「第1回日本オープン」が開かれました。この戦前の日本ゴルフ界に君臨し、戦後になっても活躍したのが、宮本留吉です。
明治35年生まれ。小学生のころからキャディを務め、23歳でプロとなりました。彼の生涯記録は、日本オープンで6回、日本プロ、関西プロ、関西オープンで各4回の優勝という不滅の金字塔を打ち立てました。さらに、一般人が海外旅行に行くなど想像もできない時代に、ハワイや全米、全英オープンにも出場していたのです。
しかし、彼が多くのプロゴルファーやファンから尊敬され愛されたのは、記録ではなく、ゴルフ一筋に生きた、その人間性でした。
宮本プロが77歳を迎えた年。喜寿を祝うコンペが開かれ、彼を慕うプロやファンなど270人が参加しました。
身に余る光栄と感謝しながら、彼は同時に、その時、病で伏せていた妻の具合を気にしながらプレーを続けなければなりませんでした。
若い時から一言も文句を言わず苦労を分かち合ってきた夫人・・・。
そんな彼女の死の知らせがもたらされたのは、プレー半ばのこと。それでも宮本プロは、お祝いに来てもらった大勢の人に悟られることなくプレーを続け、コンペ終了後には感謝の挨拶をしてから帰宅し、息を引き取った夫人と対面することになったのです。
過酷なまでにゴルフに対して真摯であった宮本留吉。その後も彼はレッスンプロの一人として、80歳を過ぎても毎日ゴルフ場に通っていました。
その暮らしを彼は当時、こう語っています。
「どんな年齢の人でも、だれとでもいっしょに楽しめるゴルフのすばらしさを、一人でも多くの人に知ってもらうのが、私に残された務めです」
彼が亡くなったのは昭和60年。いつものようにレッスンを終えて自宅に帰ったところで急に容体が悪くなり、ゴルフ一筋に生きた宮本留吉は静かに83歳の生涯を終えました。

5/20 放送分 「駄菓子屋のカネちゃん」

福岡県大野城市栄町1丁目・・・。住宅地のひとつに、子供たちに大人気の
「古くて小さいお家」があります。広さにして6畳分の木造のお家。
看板も何もなく、通りすがりの人は「ここは何だろう?」と思うはず。この小さなお家は、駄菓子屋さんです。

木製の枠のガラスの扉を開けて中に入ると、おばあちゃんがニコニコしながらイスに座っています。「いらっしゃい」・・
おばあちゃんのお名前は、村井カネヨさん。「失礼ですが、おいくつでいらっしゃいますか?」と伺うと。かえってきた言葉は「まだ 87歳です」!!
今年でちょうどお店を始めて50年。お店には「村井商店」という看板があったそうですが、数年前に台風で飛んでしまったそうです。
店内には、数は多くはないけど、昔ながらの駄菓子がずらりと並んでいます。
しかも値段は10円、20円が殆どでくじ付き。ラムネ、ウエハース、ガム・・・。子供を連れてくる大人も「わぁ〜なつかし〜!」とカステラドーナツや小さな一口サイズのカップに入ったサワーヨーグルトを手に取ります。

学校が終わる時間になると「こんにちはー!」と元気に10円玉をにぎりしめてくる子供たち。「どれがいいね。」「くじをあけてごらん。何番やったね」
あたりで「やったぁ!」と喜ぶ子供たち、はずれで「残念!」と悔しがる子供たちに、カネヨさんは、それぞれ、「よかったね」「残念やったね」と気持ちを分かちあっていらっしゃいます。
50 年お店をやってきてよかったこと。それは「お店を始めた頃の子供たちが自分の子供を連れてきて、「おばちゃん!まだやっとったとー?!」と訪ねてきてくれること。でも最近少し気になるのは、お店に入ってきてから帰るまで、ひとことも声をださない子供たちがいること・・。

この駄菓子屋さんのように、「ひと」と「ひと」のやりとりこそが、人間関係を築く力になると思います。カネヨさん、これからも、お元気でお店を続けられてください。

5/13 放送分 「校長先生のビワ」

この時期、果物屋さんの店先を賑わせるビワ。太陽の黄色に染まった丸い果実は、ジューシーな初夏の味覚です。ビワのブランドといえば、長崎県の茂木ビワが有名です。茂木を本家本元として、今では全国各地で茂木ビワが栽培され、茂木ビワを基に品種改良もされています。
鹿児島市の「平川ビワ」も、そのひとつ。

錦江湾の海と背後の山に囲まれた平川町は、かつては小さな貧しい村でした。
大正3年、その村の小学校に、校長として赴任してきたのが、国生岩右衛門(こくしょうがんうえもん)先生です。
赴任した彼は、家計を支えるために学校に来ない生徒が大勢いることを知って、胸を痛めました。子どもたちが安心して学校に行けるようにしたい。そのためにはどうしたらいいだろう・・・。悩んだ末に、何か特産物があれば、村の暮らしは楽になるのではないか・・?そう考えた先生は、自ら長崎の茂木に赴いて、ビワの苗木を買い込んできたのです。
それを村人たちに渡しながら、庭や垣根にビワを栽培するよう説得。我が家の庭をビワにするなんて、と反対する人たちもいましたが、数年後、大きく丸く実ったビワを味わって、村中が喜びに沸いたそうです。
やがて昭和になると、平川のビワは地域を代表する特産品になりました。
村は潤い、子どもたちが、普通に学校に通えるようになったのは言うまでもありません。
現在、鹿児島市立平川小学校には、国生先生の銅像が建っています。
それも、子どもたちが力を合わせて造った、ちょっと、ぶかっこうなコンクリート像。でも、先生に対する子どもたちの敬愛がひしひしと感じられます。

毎年、入学生には1本ずつビワの苗が贈られます。
それは、国生先生を偲んで毎年行われる、この小学校の伝統の記念行事です・・・・。

中村哲(てつ)医師。60歳。福岡市生まれ。
九州大学医学部を卒業し、国内で医師として多くの患者さんを診てきました。1984年からは、パキスタンに渡り、ペシャワールを拠点に多くのアフガニスタン難民の診療を手掛けていらっしゃいます。

アフガンは、戦乱もある中、2000年から今世紀最悪の大干ばつに直面。
農地が荒れ、深刻な食糧難に・・・。そして、多くの病気が発生しました。
中村医師は、「この問題を解決するには、水不足を解消すること!農業用の用水路をつくろう!」と決心されました。
そして、2003年から工事に着工。中村医師をはじめ、日本人スタッフ十数名の指揮の元、米軍による武装勢力への攻撃が続く中、現地の農民を中心におよそ38万人が作業に加わりました。

そして、今年2007年3月。中村医師が拠点とする病院があるペシャワールから、およそ100キロメートルの地点に、4年の歳月をかけ、ようやく用水路が完成。全長13キロ。インダス川の支流であるクナール川から水を引きました。
この用水路の完成で、直接水をひける農業耕地が東京ドームおよそ170個分も誕生しました。これで、およそ2万トンの小麦粉が生産でき、10万人以上の食料確保につながるといいます。
総工費はおよそ9億円。その費用は、アフガンでの中村医師の医療活動をサポートする非政府組織=NGO「ペシャワール会」への寄付ですべてまかなわれました。

「水と緑の回復こそが国の復興の礎」と語る中村哲(てつ)医師。
今度の水曜日5月9日(水曜日)講演会が福岡で開催されます。
福岡市中央区のアクロス福岡で、夕方6時半から。演題は「アフガンに命の水を拓く」。20数年にわたるアフガンへの想い。是非直接聞きたいですね。

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