2008年6月アーカイブ

6/29「10代メダリストその後の人生」

オリンピックの水泳競技で10代の選手が活躍するのは、いまや常識ですが、その先駆けとなった大会は、1932年のロス五輪でした。
種目は1500m自由形。
それまでのオリンピック記録を40秒近くも縮める19分12秒4の記録を出したのが、日本の北村久寿雄(きたむらくすお)選手です。

このときの彼は14歳。
坊主頭の少年が、大人の選手たちを寄せ付けず泳ぎまくる姿に、地元ロスの会場は驚嘆の歓声につつまれました。
ちなみに、このことが刺激となってアメリカでは10代の選手を集中的に強化し、やがて水泳王国を築き上げたといわれています。

ところで、このロス五輪で金メダルを取った14歳の北村選手は、意気揚々と日本に凱旋帰国。
歓迎会でもモテモテの人気者で、有頂天になっていました。
その姿を見て、彼に言葉をかけたのが、当時の日本水泳連盟会長・末広厳太郎(すえひろいずたろう)。
「北村君、キミはプールでは世界一かもしれないが、プールを離れたら、学生じゃないか。世界一に恥じない立派な学生、立派な社会人をめざせ。泳ぐだけなら魚だって泳ぐぞ」。
頭をハンマーで殴られたようなショックを受けたという北村少年。
自分が天狗になって奢り高ぶっていたことを思い知らされます。
彼は翌年、大学への進学を決意しました。
いろいろな大学から勧誘があり、無試験で入学させるという有名大学もありました。
しかし、彼はそれらをすべて断り、水泳もきっぱり止め、2年がかりの猛勉強で京都大学に入学。
後に東京大学法学部に進みました。

進学した東京大学で法学部長をしていた人こそ、北村少年に手痛い忠告をした末広厳太郎。
あの忠告を受けて以来、北村少年は末広博士を心から尊敬し、「末広博士のような人物になりたい」という一途な思いで、その後の人生を切り開いていったのです。

6/22「日本初のプロカメラマン」

1862年、今から146年前の幕末文久2年、長崎市内に日本初の写真館がオープンしました。
その名は「上野撮影局」。
経営者・上野彦馬(うえのひこま)は、若い頃にオランダ語で西洋の学問:蘭学を学びますが、その教科書の中で、西洋で発明された写真というものに出会います。
そこで、教科書をもとにカメラの製造から現像などの薬品の製造まですべて自分で行いました。
つまり、上野が作ったカメラこそ、初の国産カメラだったのです。

上野が開いた写真館は、最初は「魂を吸い取られる」という迷信のために開店休業状態でしたが、徐々に繁盛していきました。
幕末から明治にかけて上野が撮影した中には、坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、桂小五郎といった幕末の志士や、ロシア最後の皇帝・ニコライ二世など、近代史に名を残す人物の顔もあり、貴重な文化遺産となっています。

また、明治7年に、金星が太陽をかすめて通過する珍しい天文現象が日本で観測されましたが、上野はその記録撮影にも成功。つまり、日本初の天体観測撮影となったのです。

上野彦馬にはもうひとつ、日本で初めて行なったことがあります。
それは、日本初の戦場カメラマン。
明治10年、政府の要請で西南戦争に従軍して田原坂の戦いを記録撮影しているのです。
1万人あまりの戦死者を出したという西南戦争最大の激戦地・田原坂。
しかし、彼が撮影した207枚の写真の中に戦死した人の姿は1枚もありません。
その理由は解らないままですが、この事実は、「人と人が殺し合う戦争」というものに対する、彼自身の深い思いがあったのかもしれません。

6/15「ブラジル移住100周年」

今年は、日本人が初めてブラジルに移住して、100周年を迎えます。
現在ではおよそ140万人の日系人がブラジルで活躍していますが、最初にブラジルに渡った日本人は781人。
1908年4月28日、日本人を乗せた笠戸丸(かさどまる)が神戸を出港し、およそ2ヵ月後の6月18日、ブラジルのサントス港に到着しました。
当初、日本人はコーヒー農園などで契約農民として働き、彼らに続いて多くの日本人がブラジルに渡りました。しかし、1941年に起きた太平洋戦争で、日本とブラジルの国交は断絶してしまった歴史もあります。
その戦争の最中、日本に留学していたブラジル生まれの日系2世の川村真倫子(かわむらまりこ)さん。
戦争の為ブラジルに戻ることがきませんでしたが、その後ブラジルに戻った1952年、川村さんはブラジルで初めて小さな日本語塾を開きました。

この塾には、「戦争のない世界をつくるため、ブラジルで教師になって、子供たちに平和の尊さを教えたい」との想いが込められていたのです。
小さな塾はやがて学園となり、1993年には、保育部、幼稚部、小・中学部からなるブラジル公認の大志万(おしまん)学院へと発展していきました。
この学園の生徒たちは、もうひとつの母国ニッポンを知らない日系ブラジル人。
日本で使える日本語を覚えて、友達をつくることを何よりも楽しみに、勉強しています。
川村さんの教育理念は、「地球はひとつ、宇宙はひとつ」。
国際交流を大切にし、毎年、生徒たちを東京の玉川学園に送り出しています。
今年は、交流100年の節目に、初めて玉川学園から生徒12人がブラジルを訪れることになりました。

「日本の子供たちにポルトガル語の授業にも出席してもらい、ブラジルの文化を肌で感じてもらいたい。
大々的な記念式典も大切だけど、人と人の心の交流こそが、次の200周年へとつながっていくのだと思います」と川村さんは、期待を込めて語っています。

6/8 「青春のアロー号」

日本の自動車が世界でもトップクラスと言われるまでの長い歴史の中に、クルマ造りに情熱をかけた、ひとりの青年がいます。
それは、国産自動車のパイオニアと呼ばれる「アロー号」を制作した、福岡県の矢野倖一(やのこういち)です。

明治45年、19歳だった彼は、新聞社が主催する模型飛行機大会に、参加者中ただ一人、エンジン付きの模型飛行機で参加します。
矢野の飛行機が金賞を受賞した記事が報じられると、これを目にした資産家の村上義太郎(むらかみよしたろう)が矢野を訪ね、「君の素晴らしい着想に感心した。
援助は惜しまないから一緒にエンジンを開発し、自動車を造ってみないか」と夢のような話を持ちかけます。
当時はまだ、輸入車に頼らざるを得なかった時代。
日本に国産車を走らせたいと願うふたりの二人三脚が始まります。

まずはフランス製の三輪自動車を改造しますが、参考にできる資料は数枚の写真のみ。
部品はほとんど一から造り直す難しい作業でした。
しかし、この経験が後の国産車造りに大いに役立ち、ついに大正5年、数点の部品を除いては、すべて国内でまかなう手造りの国産車「アロー号」が誕生したのです。
アロー号は、スポークの四輪タイヤがついた4人乗りの幌型自動車。
矢野はこれまでお世話になった人たちを、フルオープンにしたアロー号に乗せて、大正初期の博多の街を時速50kmのスピードで爽快に駆け抜けたそうです。

日本のクルマを造って走らせたいというふたりの男の夢が現実となり、92年前に国産車の幕開けを飾ったアロー号。
このクルマは、「現存する最古の国産車」として、現在、福岡市博物館に常設展示されています。

6/1 「日本の公園の父」

公園は、都会の中の緑のオアシス。
今はどこの町にも公園が当たり前のようにありますが、公園というものが初めて出来たのは、明治36年。
105年前の今日、東京に日本最初の西洋式公園「日比谷公園」がオープンしました。

設計をしたのは、東京帝大教授・本多静六(ほんだせいろく)。
当時、公園の概念さえもわからなかった日本人の中で、森や林の研究で日本初の林学博士の学位をもち、ヨーロッパへの留学経験もあった彼に、公園づくりの白羽の矢がたったのです。
ところが、本田博士が公園の設計案を提出すると、公園というものを見たことも聞いたこともない東京市の議会から反発されました。
例えば、「公園の出入り口に扉を付けないのは不用心ではないか!」
これに対して彼は、「公園は誰もがいつでも自由に利用できるような、公共の場である」と反論しました。
また、公園に季節の花々を植えるという計画に、「花が盗まれるではないか」という批判。
これにも「花を盗んではいけないという心を育むのも、公園の役割。そのような公共の道徳心が発達してこそ、日本は真の近代国家となりうる」と主張しました。
このような議論をさんざん繰り返して、ようやく日比谷公園が造られたのです。

西洋の花々が咲き乱れる園内。
レストランではカレーやコーヒーといった洋風の食事を味わい、音楽堂では西洋楽器の演奏。
文明開化の東京では鹿鳴館などで貴族たちだけが西洋文化を楽しんでいましたが、この公園は庶民でも気軽に洋風文化にふれられる場となったのです。

そして本多博士はその後、明治、大正、昭和と35年間にわたって全国各地で公園の設計に携わり、その数は大小合わせて数百に及びます。
晩年には国立公園の設置にも力を尽くし、「日本の公園の父」と慕われながら、その生涯を全うしました。

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