2010年5月アーカイブ

5/30「宮本伊織:父と息子の絆」

関門海峡に浮かぶ巌流島は、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘がおこなわれたことで知られています。
その地を見下ろすように、北九州市小倉北区の手向山(たむけやま)の山頂に武蔵の業績を称える石碑が建てられています。

通称、「小倉碑文(こくらひぶん)」と呼ばれるこの石碑を建てたのは、武蔵の息子、宮本伊織(みやもと・いおり)です。
幼い頃に武蔵の養子となった伊織は、15歳のときに武蔵の推挙で播州明石藩主:小笠原家に仕え、弱冠二十歳で家老に抜擢されます。
その後、小笠原家が小倉に移ると、ついに筆頭家老(ひっとうがろう)にまで
上り詰め、「小倉藩に宮本伊織あり」と、その名は、将軍徳川家にまで聞こえるほどであったといわれます。

父親の武蔵から与えられた人生のチャンスを生かし、大きく羽ばたいた伊織。
大名家に仕えることなく、剣の道に生きた武蔵とは、正反対の人生でした。
しかしそれは、剣豪であったがゆえに叶わなかった武蔵の、もうひとつの夢を実現した人生だったのではないでしょうか。

武蔵が亡くなってから9年後、伊織が建てた石碑には、武蔵の足跡が刻まれました。
巌流島の決闘も、ここに綴られたことで史実とされ、武蔵を知る貴重な資料となっています。

とかく伝説の多い剣豪:武蔵の名を、後の時代に確かに伝えようとした伊織。
手向山の小倉碑文には、武士としてそれぞれの道を歩んだ父と息子の、心の絆が刻まれているのです。

5/23「ファインプレー」

1996年11月、兵庫県でプロゴルファーの男子トーナメントが開催されました。
このとき、初のシード権を獲得して参加したのが福澤義光(ふくざわよしみつ)選手です。

トーナメントは最終日を迎え、福澤選手が15番ホールで第3打を打とうとしたときのこと。
彼のボールは一匹のトンボの真上に乗っていて、下敷きになったトンボは身動きが取れなくなっていました。
福澤選手は悩みますが、ボールを動かせば、ペナルティとして自分のスコアに1打追加されてしまいます。
それでも彼は、ペナルティを承知でボールを手で持ち上げ、
トンボが元気に飛び立つのを確認してからボールを置き直し、プレーを再開しました。

もともと彼はこの試合の成績はあまりふるわなかったのですが、ペナルティも重なり、
結果は67位の単独最下位になってしまいました。
福澤選手はマイクを向けられると、
「あのまま打てば、トンボは確実に死んでいた。それはかわいそうだと思った」とコメントし、
ほのぼのとした感動を与えました。

翌日、このエピソードが新聞で紹介されたことからユネスコの目に留まり、
福澤選手は1996年度ユネスコ日本フェアプレー特別賞を受賞しました。

ゴルフは本来、木や岩などがあっても「あるがままに打つ」ことを基本とし、
ルールに対して厳しく自分を律することから「紳士のスポーツ」と言われています。
それでも、ボールを動かすことはルールに反すると知りながら、
トンボの命を優先した彼のやさしさは、海外からも賞賛されるファインプレーだったのです。

5/16「余部(あまるべ)鉄橋」

兵庫県香美町(かみちょう)??日本海に臨む小さな漁村をひと跨ぎする鉄道の橋が架かっています。
山陰本線の余部鉄橋です。

全長310メートル。橋脚の高さは、ビルの15階に相当する42メートル。
当時の技術の粋を集めて明治45年に造られました。
余部鉄橋と周りの自然とが作り出す四季折々の風景は、
鉄道ファンだけではなく、この地を訪れる観光客をも魅了しています。

しかし、橋の真下にある村人たちにとっては、自分たちの村の上空を列車が渡っていくのを見上げるだけ。
彼らが列車を利用するには、山を登って鉄橋を徒歩で渡り、
さらに大小4つのトンネルを抜けて2キロほど線路を歩いた先の駅に行くしかなかったのです。

「この村にも駅を作ってほしい」
陳情しても、なかなか願いは聞き入れません。
ところが、昭和の中頃、鉄橋のたもとにある余部小学校の児童たちが、
駅の設置を願う手紙を出したことが県知事の心を動かし、やがて村の真上に駅を作ることが決まりました。
児童たちは手紙を書いただけではありません。
建設が始まると、大人たちに交じって、駅へ続く道の土運びをしたり、
プラットホームの材料になる石を、海岸から皆で運んでいったりしたのです。
餘部(あまるべ)駅ができたのは、昭和35年。
鉄橋が出来て48年後のことでした。
そして、そのとき初めて、余部小学校の校歌に余部鉄橋が盛り込まれたのです。
「緑の谷に そびえ立つ 鉄をくみたる 橋の塔」

余部鉄橋は現在コンクリートの橋へと架け替えられ、ほどなく消えていきます。
でも、余部小学校の校歌で、鉄の橋はいつまでも歌い継がれていくことでしょう。

5/9「母の日」の母

105年昔の今日??1905年5月9日、アメリカで一人の女性が亡くなりました。
その名は、アン・ジャービス。

彼女には10人の兄弟姉妹がいたのですが、当時の医療水準は低く、
その中で7人が、成人する前に病死してしまいます。
このことに心を痛めた彼女は、大人になって結婚した後、
病気で苦しんでいる人を救うために募金活動をしたり、
病気予防のための食品検査や公衆衛生を普及させるなど、
その当時では珍しいボランティアで社会活動をしていました。

そして、アメリカ国内が敵味方に別れて戦った南北戦争の際、
彼女は中立を宣言して、南軍も北軍も関係なく傷ついた兵士たちを看病。
さらには、憎しみから平和は生まれないとの思いで、
南北双方の兵士を一堂に招いた「Mother`s Friendship Day」を開催し、お互いの敵意をなくすよう務めたのです。

このように平和を願い続ける活動に一生を捧げたアン・ジャービス。
彼女の死を悼んで追悼式に集まった人々一人一人に、白いカーネーションを手渡したのが、残された娘のアンナでした。
母としての愛情を、自分の子だけでなく、すべての人々に注いだ母の功績をもっと多くの人に知ってほしい??
そこでアンナは母親のための祝日を設けることを、カーネーションを通じて働きかけたのです。
彼女の運動は6年後に実を結び、1914年、アメリカ議会で5月の第二日曜日を「母の日」に制定しました。

母親への感謝を記念する「母の日」。
それはじつは、平和を願う母親たちの思いを記念するものでもあったのです。

5/2「熊さんとノイホイくん」

明治34年、日本初の製鐵所として、北九州市に八幡製鐵所が誕生しました。

ドイツ製の溶鉱炉を使いこなすには、ドイツ人の技術者を招き入れ、彼らの指導を仰がなければなりません。
その指導は辛く、毎日ドイツ語で怒鳴られ、作業員が次々と辞めていく有り様でした。
それでも一人、黙々と厳しい指導に従って作業を続けていたのが田中熊吉(たなかくまきち)です。

「日本には鉄が必要だ。たった一人になっても、俺が鉄づくりを学ぶ」
やがて熊吉は、ドイツ人の職工長ノイホイザーに認められ、
お互いに「熊さん」「ノイホイくん」と呼び合うほどの仲になりました。

ところが、鉄の製造量が思うように伸びないという理由から、溶鉱炉の使用は突然中止。
ノイホイザーもドイツへの帰国が命じられます。
ノイホイザーは、「溶鉱炉の仕事は必ず再開する。熊さん、あんただけが頼りだ」と言い残し、
熊吉はこの言葉を深く胸に刻みました。

熊吉は、溶鉱炉の構造や原料の見直しなどを徹底的に行い、
2年後の再開のときは先頭に立って指揮を執りました。
そして47歳のとき、八幡製鐵所で第1号の「宿老(しゅくろう)」に選ばれました。
これは、定年がなく一生働くことができる八幡製鐵所の最高に名誉ある地位です。
また熊吉は、日本の各地で溶鉱炉に火入れを行う際には必ず呼ばれ、
日本でも指折りの溶鉱炉の神様と言われるようになりました。

98歳で亡くなるまで現場で指導をした熊吉は、
「彼のおかげで、いまの日本がある」と胸ポケットにいつも、
くしゃくしゃになった「ノイホイくん」の写真を偲ばせていたそうです。

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