2010年9月アーカイブ

9/26「憶良の嘆き」

「萩の花 をばな 葛花 なでしこの花 をみなえし また藤袴 朝顔の花」

日本人の心に秋の七草を根付かせた山上憶良の歌です。
憶良がこの歌を詠んだのは筑前守となって大宰府に赴任しているときですが、
実は憶良がそこにたどり着くまでには遠い道のりがありました。

憶良が第七次遣唐使の随行員に任じられたのは42歳のときといわれ、それまでは無位無官。
長く不遇の年月を重ねていたのです。
当時、唐の国に渡るということは命がけのことでしたが、無事帰国すれば世に出る大きな契機となります。
憶良はそのチャンスを見事につかみとったのです。

帰国後、憶良は聖武天皇の皇太子時代の侍講、
いわゆる教官を務めるなど出世し、ついに筑前守に任じられます。
そして大伴旅人などとともに、歌人として九州の筑紫の地に万葉の文化を大きく花開かせました。
ところが晩年、病に臥せた憶良が詠んだ辞世の句とされる歌があります。

「士やも 空しかるべき萬代に 語り継ぐべき 名はたてずして」
男子たるものが空しく一生を終えてよいものであろうか、後世に語り継ぐに
相応しい名声を残すことなく、と切々と詠う憶良。
しかし、万葉集の憶良の名歌の数々は日本人の心をとらえ、
千数百年の時を越えてその名を永く語り継ぎました。

この秋も、誰かがふと秋の七草を口ずさみ、憶良の嘆きを癒すのです。

9/19「ふるさとの石」

幕末の日本。
日米修好通商条約の批准書交換のため、
幕府の蒸気船「咸臨丸」(かんりんまる)が初めて日本の船として太平洋横断に成功しました。

勝海舟やジョン万次郎、福沢諭吉などを乗せた咸臨丸が浦賀を出港したのは、1860年2月。
およそ1ヶ月の航海を経てサンフランシスコ湾に到着し、熱烈な歓迎を受けました。

この偉業を陰で支えたのは、咸臨丸の帆の上げ下ろしや蒸気機関の石炭くべなど
重労働に従事した67人の乗組員です。

その乗組員のひとりが、長崎出身の峯吉(みねきち)。
彼は長い航海のほとんどを、狭くて熱い船底でボイラーに石炭をくべる役目を担いましたが、
その苛酷な仕事が祟ったのか、サンフランシスコに上陸して間もなく熱病にかかり、
看護の甲斐なく亡くなってしまいました。
峯吉のほかにも、2人の乗組員が同じように病死。
彼らは日本に帰る咸臨丸に再び乗り組むことなく、異郷の地に手厚く葬られました。

峯吉ら3人の墓は現在、サンフランシスコ郊外の日系人共同墓地にあり、
現地の日系人団体の人たちが命日などに花を供えたり、掃除をしたりして守り続けています。
命がけで太平洋の荒波を渡った3人の乗組員の勇気と精神は、
現在のアメリカに暮らす日本人の心にも深く刻まれているのです。

咸臨丸の太平洋横断から150年目に当たる今年、日系人団体の手によって3人の墓のそばに顕彰碑が建てられました。

そして、咸臨丸の栄光を陰で支えながら二度と日本に帰ることができず、
今なお、子孫が分からない峯吉のために、
彼が生まれた長崎の町に転がっていた拳ほどの大きさの石が選ばれ、「ふるさとの石」として墓前に供えられました。

9/12「ユタ州の日本語新聞」

いまからおよそ100年前、アメリカ合衆国のユタ州で、日本語の新聞が配られていました。
それは、長野県出身の日本人・寺澤畝夫(てらさわうねお)さんが、
当時ユタ州に住む日本人およそ2,500人のために発行した「ユタ日報」という新聞です。

この新聞は、週に1度、日本のニュースを届ける重要な情報源でした。
寺澤さんはやがて、同じ長野県出身の国子(くにこ)さんと結婚し、二人の娘に恵まれます。
ところが寺澤さんは突然、急性肺炎にかかって、亡くなります。
妻の国子さんは生きる気力を失くし、13歳と7歳の娘を連れて日本へ帰る準備を始めました。

その時です。
ユタ日報の読者である日本人たちが次々と訪れ、
「どんな協力も惜しまないから、新聞を続けてください。ユタ日報がなくなれば、
せっかく異国に根を下ろした我々の心の拠り所がなくなってしまいます」と国子さんに訴えました。
国子さんはそれまで専業主婦だったにも関わらず、
「皆さんのお力になれるのなら」と社長になる決心をします。

それから2年後、日米間で第二次世界大戦が始まり、
日本語新聞の発行禁止命令が出されましたが、
ユタ日報だけは開戦から2ヵ月後に再発行が認められたため、
祖国を憂う全米の日本人が購読し、最盛期の発行部数は1万部を超えていました。

ユタ日報の年間購読料は、当時わずか6ドル。
その後、読者の数が減少しても1ドルしか値上げをしなかったのは、
戦時中の利益をみなさんに還元したいという国子さんの強い意思からでした。
ユタ日報は、国子さんが95歳でこの世を去る1995年まで、異国で暮らす日本人たちを支え続けました。

9/5「インドの緑の父」

インドの砂漠をたった一人で緑に変えた日本人がいます。
その人の名前は、杉山龍丸(たつまる)。
作家・夢野久作の長男として福岡で生まれ育ちました。

戦後、セールスマンなどを経てプラスチックの技術者として独立したころ、
知り合いに頼まれてインドからの留学生の世話をしたことから、
彼らが信奉するガンジーのことを知り、その弟子たちと交流を深めていきます。
そんな杉山さんの活動を知ったインド政府は、昭和37年、彼をインドに招きました。
そこで彼は改めて、当時のインドの困窮の凄まじさと、国を良くしようと願う人々の熱意に打たれ、
この国のために尽力しようと誓います。

杉山さんが行なったのは、砂漠の緑地化。
成長が早く根が深いユーカリを植林し、地下水脈をせき止めて水を確保することを提案し、実地指導にあたったのです。

ところが、この事業が始まって間もなくインドに大飢饉が起こり、その対策を優先したインド政府は事業を中止。
それでも杉山さんは福岡に残した土地や財産をすべて投げ打って、それをインドでの植林につぎ込んだのです。

10年後。
総延長470キロの幹線道路には4mおきに植えられたユーカリが大木となって葉を茂らせ、
周囲の土地には稲、麦、馬鈴薯の三毛作ができるようになりました。
この事業に対して日本政府からは一切の援助はなく、
また杉山さん自身が学者ではなかったことから学会からも黙殺され、
一個人が成し得た壮大な緑化事業は、彼が昭和62年に亡くなるまで、
日本ではほとんど知られることはありませんでした。
しかし、インドの人々の間では、
いまなお「インド独立の父はガンジー。インドの緑の父は杉山龍丸」と讃えられています。

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