2012年7月アーカイブ

7/29「走り続けたゼッケン67」

昭和39年に開催された東京オリンピックで、メダルどころか最下位という成績に終わりながら、多くの人々の心をとらえた選手がいました。
ラナトゥンゲ・カルナナンダ選手。
当時のセイロン、現在のスリランカの代表選手でした。

彼が出場したのは陸上競技の10000m。
400mのトラックを25周する競技です。
国立霞ヶ丘競技場で数万人の観衆が見守る中、次々に選手がゴールし、ゼッケン67のカルナナンダ選手も最下位でゴール!と思いきや、まだ走り続けます。
周回遅れでした。
しかも、そのあと3周も脇腹を押えながら一人で黙々と走り続けたのです。
最初は冷ややかに見ていたという人々の間に驚きと感動が広がり始めます。
そして、最後の力を振り絞ってゴールするとき、競技場にはその健闘を讃える大きな拍手が響き渡っていたのです。

レースの後、カルナナンダ選手は「娘が大きくなったら、お父さんは負けても最後まで頑張って走ったと教えてやるんだ」と語ったといわれます。
実は東京オリンピックの年、しかもオリンピック出場を決めた日に生まれたネルムという名の幼い娘がいたのです。
そのネルムが10才のとき、カルナナンダ選手は不慮の事故で亡くなります。

現在、看護師として活躍するネルム。
「父は私の誇りです」と語る娘の心の中で、ゼッケン67は、今も走り続けています。

7/22「予報官は辛い」

日本で天気予報が始まったのは、明治17年のこと。
気象庁の前身である東京気象台から日本で最初の天気予報が発表されました。
その内容は「全国一般、風の向きは定まりなし。天気は変わりやすし。ただし雨天がち」。つまり、地方ごとではなく日本全国の天気をこのような一文で予報する簡単なものだったのです。

それから1世紀以上経った現在では、全国各地の気象台を中心として国内約3000カ所の気象観測所、それに気象レーダーや気象衛星からのデータを駆使して、正確できめの細かい天気予報に進化しています。
しかし、それでも天気予報が100%の確率で当たることはありません。
なぜなら、地球の大気の動きはまだまだ不確定な要素があるからです。
そこが、気象台に勤める予報官の辛いところ。
ときには気象学の常識では考えられないような低気圧の動きのために、晴れの予報を出したにも拘らず、雨が降ることだってあるのです。

10年ほど前、東京の天気予報が当たらないと苦情が殺到したことがあります。
その日の天気も予報では晴れなのに、実際は雨。
皆が傘を差して街を歩いている中、ある建物から一人の男性が傘も持たずに出てきました。
びしょ濡れになって駅に向かって歩いています。
怪訝に思った人が声をかけたところ、その男性はこう答えたそうです。
「いやあ、傘は会社の中に置いているんですが、皆さんにすまないから、持たずに出たんです」

その建物は東京の気象台で、男性は予報官だったのです。

7/15「幻の山下弁当」

千葉県のJR常磐線・我孫子駅には、「山下弁当」と呼ばれる名物の駅弁がありました。

中身はごく普通の幕の内ですが、その包み紙は、放浪の天才画家・山下清が描いたもの。
有名画家がデザインした駅弁包装紙は、ほかに例がありません。
実は山下清は昭和16年から4年間、この弁当屋さんに住み込みで働いていました。
ひたすらイモやニンジンなどの皮むきをやったり、出来た弁当を駅まで運んだり、その仕事ぶりはとても丁寧だったそうです。

でも、ときにはふいに姿を消し、何か月間も放浪に出ることもありました。
そんな清を弁当屋の人たちは咎めるでもなく、またふらりと戻った彼を温かく迎え入れていたそうです。
これが縁で、後年になって貼り絵画家として有名になった彼は、お世話になったお礼にと、駅弁の包み紙用に絵を描いたのです。

その絵には我孫子駅を走る汽車や、海辺で釣りをする子どもなど、のどかな風景が描かれ、その余白に山下清がこう署名しています。
「おべんとう、僕が働いていた所です あじはいかがですか 山下清」

しかしその後、我孫子駅の周辺は宅地開発が進み、電車を利用するのが通勤客ばかりになると、駅弁は次第に売れなくなりました。
そして昭和から平成へと時代が変わったころ、のどかな風情の山下弁当はついに姿を消し、「幻の駅弁」となったのです。

7/8「一番のいいニュース」

アルゼンチンのプロゴルファー、ロベルト・デ・ビセンゾは、1967年の全英オープンで優勝。
ゴルフ後進国だったアルゼンチンに初めてメジャータイトルをもたらした名ゴルファーです。

あるトーナメントで優勝したビセンゾ。
優勝賞金の小切手を持ってクラブハウスを出ると、そこに一人の若い女性が近づいて彼に話しかけました。
優勝のお祝いを述べた後、彼女は、「実は自分には重い病気の子どもがいて死にかけている。医者に診せる費用や入院費をどうやって支払えばいいかわからない」と告白するのです。
子を思う母親の切迫した思いに同情したビセンゾは、「これが少しでも子どものためになれば」と、獲得したばかりの優勝賞金の小切手をその場で裏書きして、彼女の手に握らせました。

後日、彼はこのクラブハウスの職員から、先日会った女性が実は詐欺師だったことを知らされます。
「病気の子どもなんかいない。彼女は結婚さえしていない。あなたは騙されたのです」
それを聞いて、ビセンゾはもう一度、確認の質問をしました。
「では、本当に死にかけている子どもはいないのかい?」
残念そうに「その通りです」とうなずく職員。

しかし、ビセンゾは逆に笑顔になり、「それはよかった。今週聞いた一番いいニュースだよ」と言ったのです。
彼はゴルフそのものとは別にも、伝説的に語り継がれる名ゴルファーとなりました。

7/1「『かなりあ』発祥の地」

子どもの豊かな空想や情緒を育むために創作された歌―童謡が誕生したのは大正時代です。
それまではわらべ歌や文部省唱歌しかありませんでしたが、大正7年に児童向けの雑誌『赤い鳥』が創刊。
この雑誌に掲載された『かなりあ』という詩に曲がつけられたものが、童謡の始まりとされています。

『かなりあ』を作詞したのは西條八十(さいじょうやそ)です。
西條が作詞家を志したきっかけは、関東大震災での出来事。
彼は倒れた家屋や非難する人々の激しい動きに巻き込まれ、いつの間にか上野の山に押しやられ、そこで一夜を明かすはめになりました。
その夜中、地獄のように燃えさかる火災を眼下に見ながら、恐怖に震えて座り込んでいる人々の中から突然、一人の少年がポケットからハーモニカを出して吹き出しました。
それは思いがけなく美しい音色で、激しい地震と火災に怯え、気が立っていた人々の心に優しく鳴り響き、皆しんみりと耳を傾け聴き入ったのです。
そのときの何ともいえない深い感動から、西條は「自分は大衆の喜ぶ歌を作ろう」と決心したそうです。

いま、その上野の不忍池に西條八十の『かなりあ』の一節を刻んだ碑が建っています。
―歌を忘れたかなりやは 象牙の船に銀の櫂
 月夜の海に浮かべれば 忘れた唄を思い出す―

7月1日。きょうは童謡雑誌『赤い鳥』が創刊された日を記念した「童謡の日」です。

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