2012年10月アーカイブ

10/28「消防犬 文公」

運河の街として知られる北海道の小樽市の小樽運河のそばに、かつて「消防犬」として小樽の人々に愛された犬、文公(ぶんこう)の銅像が建てられています。

火事の焼け跡で鳴いていたところを消防士達に助けられ、消防本部で大切に育てられた文公。
火災が多かった小樽市では昭和2年に本格的に消防制度が整備され、消防自動車が導入されるなど近代化されます。文公は火災出動のベルが鳴ると一番に消防車に飛び乗り、火災現場ではホースをくわえて消防士のもとへ走り、吠えて野次馬を追い払うなど大活躍したといわれます。

出動回数は千回にも上り、昭和13年に24歳で死亡したときには、消防本部で署員達が参列して葬儀が行われ、市民から届けられたたくさんの花や大好物だったキャラメルを供えて別れを惜しみました。

当時はその活躍が新聞やラジオなどで紹介され、全国的にも有名な存在だった文公ですが、時の流れとともに人々の記憶から薄れていきます。
しかし、小樽の人々は忘れなかったのです。
平成10年には文公の絵本が出版され、平成18年、文公の死から68年もの歳月が過ぎていましたが、元、消防団副団長の木下氏が文公の銅像を作ろうと募金を呼び掛けると、わずか半年ほどで資金が集まり銅像が建てられたのです。

小樽の人々が復活させた文公の雄姿は、観光客も足を止める街の名所となっています。

10/21「島唄になった気象予報官」

沖縄県の石垣島に『岩崎節』という島唄が伝わっています。
「岩崎」とは、岩崎卓爾(たくじ)。明治31年、台風観測の最前線基地として石垣島に作られたばかりの測候所に赴任した気象観測技官です。

当時の石垣島には天気予報という概念はなく、古くからの言い伝えで海の天気を占って漁に出たり、日照りが続くと雨乞いをして畑を耕すという暮らしをしていました。
本土からやってきた卓爾が、そういう島の風習を否定し、天気予報の重要性を説いて回ったので、島民たちは猛反発。「神聖な雨乞いを冒涜された」と怒った島民たちが測候所に押しかけ、卓爾を縛り上げて村に連行するという騒ぎもありました。

それでも卓爾はめげることなく気象観測、とくに台風の研究に没頭します。
その姿に島民たちは次第にほだされ、卓爾の飾らない人柄を慕うようになっていきました。
何より、卓爾の台風に関する予報のおかげで漁師たちの遭難事故が目に見えて減っていったことに、島民たちは感謝したのです。

大正9年。卓爾が島に来て20年目を祝う会が島の有志の呼びかけで催されました。その会費は1円という当時としてはかなり高い金額でしたが、500名もの島民たちが会場となった測候所の庭に集まりました。
中には、30キロ以上も離れた島はずれから「卓爾さまのためなら」と馬に乗って駆けつけた古老もいたそうです。

昭和12年、享年68歳で石垣島の土となった岩崎卓爾。
石垣島に捧げた彼の半生が彼を偲ぶ島人たちの間で島唄となり、いまも語り継がれているのです。

10/14「巨匠の趣味」

ドヴォルザーク作曲の交響曲第9番『新世界より』。その第4楽章は荘厳なオープニングのメロディでよく知られていますが、この曲は蒸気機関車が走り出すときのイメージを描写したものだといわれています。

巨匠ドヴォルザークは、1日最低でも40小節を作曲することを自分に課していましたが、同時に、彼にはもうひとつの日課がありました。
それは最寄りの駅に出かけて汽車を見ること。ドヴォルザークはじつは筋金入りの鉄道マニアだったのです。

時刻表を暗記し、すべての列車の番号をメモ。
鉄道模型を手作りしたり、機関車の運転士と知り合いになると「天にも昇る心地だった」と日記に書いたり。
とにかく、音楽以外の関心はすべて鉄道だったようです。
彼はいかにも音楽家らしく、走る列車が奏でる走行音をも楽しんでいました。

彼がある日列車に乗っているとき、いつもと微妙に違う走行音が聞こえました。車掌にその旨を伝えたところ、車両から故障が見つかりました。
ドヴォルザークの研ぎすまされた音感が、列車事故を未然に防いだのです。
そんな彼が友人にため息交じりに語った言葉・・・。
それは「本物の機関車が手に入るのだったら、これまで自分が作った曲のすべてと取り替えてもいいのに・・・」

現在、音楽の都ウィーンとドヴォルザークの祖国チェコの首都プラハを結ぶ特急列車は「アントニン・ドヴォルザーク号」という名前です。
もし、ドヴォルザークが生きていてこのことを知ったら、きっと天にも昇る心地だったことでしょう。

10/7「夭折の少女詩人」

「まっかい まっかい ばらの花 目に入ってゐるうちに 目つぶつて 母ちゃんに見せに行こ」

これは、天才女流詩人と謳われた海達公子(かいたつきみこ)の作品です。

大正5年生まれ。熊本県荒尾市で育った海達公子は、小学校2年生のとき文芸雑誌『赤い鳥』に投稿した詩が北原白秋の目にとまり、絶賛されます。
その後、新聞や雑誌に次々と詩を発表し、少女詩人として一世を風靡。
少女らしい素直な言葉が豊かな情景を描き出す作風に惚れ込んだ北原白秋は、彼女の将来を期待し、弟子のように可愛がりました。
やがて高等女学校に進学した公子は、その才能を詩から短歌へ向かわせます。

このころ、彼女の家庭は生活が苦しく、差し押さえで家を追い出されたり、また実の父から暴力をふるわれたりと、複雑な環境でしたが、学校での公子は成績抜群でスポーツも万能。級長として皆の世話をし、また皆から愛される明るい生徒でした。

ところが昭和8年、晴れの卒業式の直後に彼女は突然の病で倒れ、心臓マヒを起こして帰らぬ人となったのです。
16歳というあまりにも短い人生を終えた公子が残したのは、五千編の詩と三百首の短歌。
しかし、いま彼女の名を知っている人はあまりいません。
でも、彼女が命を燃やして短い青春を過ごしたふるさと・荒尾の人たちは、駅前広場、公園、神社の境内、学校の校庭・・・町のあちこち10数カ所に海達公子の文学碑を建て、彼女を偲び、その名を後世に語り継いでいます。

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