2014年2月アーカイブ

2/23「日本初のリケジョ」

小保方さんのSTAP細胞発見のニュースで、理系の女子、リケジョが注目されていますが、日本初の女性理学博士が誕生し華やかに報じられたのは昭和2年。明治生まれの保井(やすい)コノ、47歳のときでした。

現在のお茶ノ水女子大学の前身である女子高等師範学校理科に学んだ保井は植物研究の道を歩み始め、31歳のときにイギリスの植物専門誌に日本女性として初の論文を発表して国際的に注目されます。

ところが文部省に国費留学の申請をすると「女子は科学に向かない。帰国後も結婚して家庭生活に入るなら税金の無駄使い」と拒否されるのです。
このとき、保井の恩師達が文部省に抗議するなど応援。
アメリカ留学を実現させています。

ハーバード大学で石炭研究を開始した保井は、帰国後、各地の炭鉱へ調査に出かけては研究を重ね、石炭の正体は植物だと見抜いて、従来の「微生物による石炭成因説」に代わる新見解を発表。
この「日本産石炭の植物学的研究」に対して東大の教授会が学位を認定し、日本初の女性博士誕生となったのでした。

女性への偏見や差別との闘いでもあった研究者の道でしたが、保井を指導して導き、応援し続けたのも恩師の男性研究者達でした。
その思いに報いるように、保井も女性研究者の育成に力を注ぎました。

2/16「逆立ちの代わりに」

昭和20年代、日本のマラソン選手たちは「マラソン足袋」という地下足袋を履いて走っていました。
走りやすいのですが、足に豆が出来るのが難点。
そこで靴メーカーの人が、豆が出来ないシューズを作ろうと考え、当時のトップランナーだった寺澤選手に意見を求めました。

「豆が出来ると走るのがいやになるでしょう?」
しかし寺澤選手は「いや、豆を克服してこそ一流の選手」
と反論します。
「でも豆が出来ない靴があればもっといい記録が出るはずです」
と靴メーカーの人が食い下がると、
「そんな靴が本当にできたら逆立ちしてマラソンしてみせますよ」
と寺澤選手は本気にしません。

それから数年後。
二重になった靴底の中に空気を出し入れすることでランナーの足の裏を冷やすという、活気的なマラソンシューズが開発されました。
「やっと出来たので試してみてください」
と寺澤選手にマラソンコースを実際に走ってもらうと、
42.195キロ完走しても足の裏が少し赤くなったほどで、豆はできません。
信じられないという顔をする寺澤選手。

昭和38年2月17日に開催された別府大分マラソン。
寺澤選手は逆立ちしてマラソンする代わりに、アベベのもつ記録を塗り替える2時間15分15秒という世界最高記録で優勝するのです。

2/9「決して会わない友情」

ロシアの大作曲家チャイコフスキー。
彼は生まれつき内気で人と接することが苦手だった反面、情熱的な人間づきあいに憧れていたそうです。

そんな彼の前に現れたのがナジェージダ・フォン・メック夫人。
大富豪だった夫の財産を引き継いで優雅に暮らしていた彼女は無類の音楽好きで、優れた作曲家を援助したいとモスクワ音楽院に申し出ました。

選ばれたのは、この音楽院で講師をしていた30代のチャイコフスキー。
メック夫人はたちまち彼の作品の虜になり、絶賛の手紙と多額のお金を送ります。
それに対してチャイコフスキーも感謝の手紙を書き、そこから二人の熱烈な文通が始まりました。

さらにメック夫人は、二人が決して会わないという条件で彼に年間6000ルーブルを援助し続けることを約束。
決して会わないという取り決めは、人づきあいが苦手な癖に情熱的な人間関係に憧れるチャイコフスキーにとって理想的なものでした。
彼は音楽院の講師を辞め、何の心配もなく作曲に専念することができたのです。

メック夫人は彼の音楽を心から愛し、チャイコフスキーは彼女の厚意に応えて数々の名作を発表。
二人は一度も顔を合わせることなく、13年間手紙だけでお互いの友情を伝え合いました。
その手紙の数は1211通に及んでいます。

2/2「ベルツ先生」

寒い冬に手足が乾燥してできるアカギレ(皸)。
その特効薬として知られているのが、「ベルツ水」という液体です。

エルウィン・フォン・ベルツは、明治9年に政府の招きで来日したドイツの医学博士です。
彼は冬に訪れた箱根の旅館で仲居たちがアカギレだらけなのを見て驚き、肌荒れにはヘチマ水くらいしかなく日本中の女性が苦しんでいることを知りました。
そこでグリセリンと日本酒を調合したベルツ水を考案。
誰もが簡単に作れるものにして普及させたのです。

ベルツは29年間の日本滞在で800人以上の弟子を育てた日本近代医学の父ですが、医学は人を助けるための医術であることを熱心に説き、自らもそれを実践していました。
大学の講義の合間を縫っては外来患者を受け付けて診察。
貧しい患者からお金を受け取ることはなかったそうです。

ベルツのそのようなヒューマニズムが見事に表れたのは、ハンセン病への対応。
明治18年に発表した論文で、感染の危険性はさほどないと指摘し、ハンセン病で苦しむ人々を無慈悲にも家族の中から引きずり出し、社会の外へ追放してはならぬ、と強く抗議しました。

ベルツの訴えを受け入れて日本が隔離政策を廃止したのは、それから90年も経った平成8年のことです。

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