2014年8月アーカイブ

8/31「UITEMATE」

今年の夏も痛ましい水の事故が相次ぐ中、海で溺れた男性が20時間も流されながら助かり話題になりました。
彼を生還に導いたのは、今、日本が世界に発信する水難事故対策「ウイテマテ」。名付け親は兵庫県赤穂市消防本部の消防職員で、救急救命士の木村隆彦(きむら・たかひこ)さんです。

水難事故の度に「救助隊が到着するまで、あと少し浮いていてくれれば命を救えた」と悔しい思いをしていた木村さんは、衣服を着た状態で水難事故にあったとき、そのまま浮いて救助を待つ「着衣泳(ちゃくいえい)」の有効性に着目して研究会を発足。
さらに国立長岡技術科学大学大学院に入学し研究に取り組んで3年余り。
ついに昨年12月、「着衣泳」の有効性を世界で初めて科学的に立証したとして工学博士の学位を授与されたのです。
息子と同じ世代の学生達と肩を並べ、海上の実験では自ら太平洋に浮かんだことも。
体力的にも経済的にも重い負担の中、「協力してくれる同僚や家族のためにも絶対にやり遂げる」と乗り越えました。

国際学会で木村さんが「着衣泳」の訳語として発表した「UITEMATE」は、今や国際語として世界に広がり、日本でも知名度がアップ。
水難事故死ゼロを目指して、木村さんの懸命の取り組みが続いています。

8/24「ナヴォイ劇場」

中央アジアのウズベキスタンでは、1966年の大地震で首都タシュケントのほとんどの建物が崩壊してしまいました。
が、この時びくともしなかったのがナヴォイ劇場。
被災者の避難場所として活用された煉瓦造りのこの建物を造ったのは、じつは日本人です。

ウズベキスタンはその当時旧ソ連の領土だったため、ロシアに抑留された日本兵捕虜のうち約500人がここに連れてこられ、ナヴォイ劇場の建設に強制労働させられました。
ろくに食べ物を与えられない劣悪な環境の労働は苛酷なもので、500人のうち79人が亡くなっています。
しかし、彼らは強制労働であっても一切の手抜きをせず、真剣に責任感を持って建設作業に取り組みました。

その真面目な働きぶりに現地の人たちは次第に好意を抱きます。
日本兵捕虜に同情した現地の子供たちが、収容所の敷地にこっそり食べ物を差し入れました。
すると数日後、同じ場所に手作りの木のおもちゃが置かれています。
それは日本兵からのお返しでした。
捕虜の身でありながら、受けた恩に精一杯の礼儀を尽くす日本人の行いに、ウズベキスタンの人たちは尊敬の念を抱くようになります。

その後、独立国家となったウズベキスタンは現在、中央アジアで一番の親日国。あの強制労働で亡くなった79人の日本人の墓地を、いまも国を挙げて大切に守っています。

8/17「漂流郵便局」

香川県の瀬戸内海に浮かぶ栗島。
人口300人足らずの小さな島に、ちょっと不思議な郵便局があります。
その名は「漂流郵便局」。
正規の郵便局ではありません。
粟島で長年郵便局長を勤め上げた方を迎えて開設された私設の郵便局です。

漂流郵便局には普通の郵便局では決して配達してくれない葉書が送られてきます。
それは、会いたくてもどこにいるのか分からなかったり、亡くなってしまった相手に宛てた葉書だったり、過去や未来の自分に宛てた葉書だったり。
もうすぐ生まれてくる自分の子供宛や、いつか捨ててしまったお気に入りのぬいぐるみ宛など様々。
つまり、直接届けることができない相手に向かって書かれた葉書なのです。

去年の秋に開局した漂流郵便局に寄せられた葉書は1500通以上。
それは局内に大切に保管されています。
そしてこの郵便局を訪れた人はこれらの葉書を自由に閲覧でき、書いた人の想いに心を重ねることができます。
そのとき、もし、「これは自分宛の葉書だ」と感じる葉書に出会ったら、それを受け取って持ち帰ることもできます。

いつかのどこかに居るあなたへの葉書。
届かなくても語りかけたい想いが綴られた葉書が瀬戸内海の粟島に流れ着く・・・それが漂流郵便局なのです。

8/10「白河の関」

今年も始まった夏の甲子園。春、夏の大会の度に次のようなことが言われています。
「今度こそ優勝旗は白河の関を越えるか?!」

白河の関とは、かつて都から陸奥の国に通じる街道に設けられた関所。
いまの福島県白河市にあり、これに因んで東北と北海道を「白河以北」と称する場合があります。
90年にわたる高校野球の長い歴史の中で東北、北海道の優勝校は一度もありませんでした。
そこで「優勝旗は白河の関を越えていない」という言い方が生まれたのです。

ところが平成16年夏の大会で北海道の駒大苫小牧が全国制覇。
ついに優勝旗は白河の関を越えた、と思いきや、そうはいきませんでした。
優勝を果たした駒大苫小牧のナインたちを乗せた飛行機のキャビンアテンダントが「深紅の大優勝旗も皆さまと共に津軽海峡を越え、まもなく北海道へ入ります」と放送。
このことから優勝旗は「白河の関」ではなく「海峡を越えた」という言い方が広まったのです。

おさまらないのは東北の野球ファン。
当時の白河市長は苫小牧市長宛にお祝いの手紙を送っていますが、その中で
「白河の関を無視して海峡まで空を飛んで行ったことは残念」と皮肉を込めています。

ともあれ、東北の人々の心の中に白河の関はいまなお生き続けているのです。
平成26年夏。今度こそ優勝旗は白河の関を越えるのか!?

8/3「広島のソウルフード」

「広島風お好み焼き」はいまや全国に知れ渡った人気グルメですが、本家本元の広島市にはお好み焼きの店がなんと約1000店あるそうです。
広島にお好み焼きという食文化が誕生したのは、戦後です。

昭和20年8月6日8時15分、広島上空で原爆が炸裂。
爆心地から半径2キロ以内の市街地は壊滅しましたが、その外側では全壊を免れた家もありました。
その家々では男は市中心部に仕事に出ていたため被爆して亡くなり、主婦や子どもばかりが残されました。
そんな男手を失った女性たちが戦後の食糧難を生き抜くために始めた商売が、「一銭洋食」の店です。

一銭洋食とは戦前からあった駄菓子で、水で溶いた小麦粉を薄く広げて焼き、その上に葱をまぶしてソースを塗っただけの代物。
資本もいらず台所で簡単に作れるので、素人の主婦でもできる商売だったのです。
その商売をしながら彼女たちは、母親が他所で働きに出ていて家でひもじい思いをしている近所の子どもたちに、野菜屑や残り物の食材を持ってこさせ、それを一銭洋食と一緒に焼いて食事代わりに食べさせていました。
そうやって、ご近所同士で苦しい暮らしを助け合ってきたのです。
そしてこのことが、その後いろいろな食材が入ったお好み焼きへと発展していくのです。

広島の人たちにとってお好み焼きとは、戦後の街の復興を陰で支えた食。
まさに広島のソウルフードです。

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