2014年11月アーカイブ

11/30「シークレットサンタ」

アメリカでは毎年12月になると、貧しい人々に匿名で20ドル札を配る男性が現れ、いつしか「シークレットサンタ」と呼ばれるようになりました。
いったい誰なのか、それが判明したのは2006年11月のこと。
がんで余命わずかと宣告されたラリー・スチュワートさんが、実は自分だと告白したのです。

若い頃、仕事に失敗して無一文になったラリーは空腹に耐えかねて無銭飲食。お金を落とした振りをすると、店員が20ドル札が落ちていたと手渡してくれたのです。
それで支払いを済ませたものの、ラリーは20ドルが店員の善意であったことに気がつきます。
その後のラリーの人生は山あり谷あり、辛い谷底もありましたが、支えとなったのは20ドルの善意の記憶でした。
そして、ある年の12月、ふとしたきっかけで20ドルのプレゼントを始めると、不思議なことにラリーの人生は上り坂に転じ、実業家として成功。
家族の応援も受けて、シークレットサンタの活動は27年間も続けられたのです。

思いやりの心が広がることを願って告白したラリーさんは、大きな反響の中、翌年の1月に58歳で亡くなりました。
生前、彼が設立したシークレットサンタ協会の会員資格は、少なくとも1回、他人へ親切な行いをすること。
今も世界中から申し込みが絶えないといわれます。

11/23「手袋の町」

きょう11月23日は「手袋の日」。日本手袋工業組合が、これから手袋が必要になる季節に向けて、祝日の勤労感謝の日を記念日にしました。
その日本手袋工業組合はどこにあるのか・・・。東京や大阪ではありません。
香川県の東かがわ市にあります。
実は東かがわ市は百年以上の歴史をもつ手袋の町。
日本製の手袋やグローブの約9割がこの町の約30社のメーカーで作られているのです。

平成20年の5月から6月にかけて、北京オリンピックの出場権を賭けた男子バレーボールのアジア予選が東京で行われました。
それまで男子バレーボールは3回続けてオリンピック出場を逃しています。
この予選を勝ち抜いて16年ぶりに五輪復帰することが悲願でした。

チームの監督は植田辰哉。香川県東かがわ市の出身です。
そこで、東かがわ市では地元のヒーロー・植田監督率いる全日本チームの五輪出場を後押ししようと、試合会場の東京体育館に乗り込みました。
その会場で観客に配ったのは、手袋。日本手袋工業組合の協力で、幸せをイメージする黄色の手袋を大量に用意したのです。

全日本チームが得点するたびに観客席から沸き起こる黄色い手袋の拍手。
思いがこもった手袋の応援に応えて、植田ジャパンはみごと予選を勝ち抜き、北京オリンピックへの出場を果たしたのです。

11/16「マスカット・ベリーA」

今年も新酒のワインが出回る季節になりました。
ここ日本でもいまは全国各地にワイナリーがあり、味を競っています。
その国産ワインの父と呼ばれる明治の人が、川上善兵衛です。

彼の家は新潟の代々の庄屋で裕福でしたが、村は痩せた土地で稲作がうまくできませんでした。
村人の苦しみを見た善兵衛は、新たな作物の必要を痛感し、葡萄を使ったワイン造りを思いつきます。
彼は私財を投じて欧米からさまざまな葡萄の苗木を取り寄せ、自宅の庭園を壊して葡萄畑にし、日本の風土に合った品種改良に取り組みます。
それは歳月と根気のいる仕事でしたが、失敗を繰り返しながらついに「マスカット・ベリーA」というワインに最適な新しい品種を産み出したのです。

また、ワイン造りでも試行錯誤の末に冬の雪を利用した低温発酵などを考案。
地主も小作人もなく村人皆で葡萄を栽培してワインを造り、その利益を皆で分け合うという画期的な経営をしたのです。
さらに、彼は苦労して産み出した新しい品種を他の村にも次々に無料で分け与えていきました。
そのため、彼の家は破産してしまいます。

晩年、彼はこう語っています。
「財産は失くしたが、葡萄は全国に広まっている。私の努力は報われたのだ」
いま、全国のワイナリーの約6割が、川上善兵衛が産み出した葡萄の品種を使っています。

11/9「上下水道の父」

明日11月10日は「エレベーターの日」。明治23年のこの日、日本で初めてエレベーターが登場したことに由来する記念日です。
日本初のエレベーターが設置されたのは東京・浅草の「凌雲閣」。
煉瓦造り12階建ての塔で、高さ52m。
後に関東大震災で破損して解体されるまで、日本一の高さを誇っていました。

この凌雲閣を設計したのはウィリアム・バルトンというスコットランド人。
いわゆる明治のお雇い外国人ですが、彼は凌雲閣を設計するために日本に来たわけではありません。
バルトンの専門は衛生工学。
明治の開国で西洋の悪いものも入ってきました。それがコレラ。
明治初期には年間10万人以上の人が感染して亡くなっています。
そこで公衆衛生上から上下水道の普及が急務とされ、その第一人者であるバルトンが招かれたのでした。

彼は東京を初め全国24の都市を回り、水源の調査から測量、上下水道の設計に邁進。その誠実でひたむきな姿は、日本人技術者たちへの見事なお手本になりました。
また仕事以外では日本人の友人たちと趣味のカメラの同好会を作ったり、凌雲閣の設計をしたりと、その多才ぶりを発揮したのです。

病のため日本滞在中に43歳で亡くなったバルトン。
母国スコットランドで彼の功績を知る人はいませんが、日本では近代上下水道の父として、いまも水道関係者から尊ばれています。

11/2「ラジオ創世記」

1920年の今日11月2日、アメリカのピッツバーグで世界初のラジオ局KDKAが開局。ラジオ放送の歴史がここから始まりました。

それ以前から無線のモールス信号はありましたが、その電波を使って人の声や音楽を送れないものか、と考えたのがフェッセンデン。
エジソンの元部下でもある発明家です。

彼は無線通信の研究を続ける中で、2つの信号を混ぜ合わせることで耳に聞こえる音を取出す原理を発見。
これを基に研究・実験を積み重ね、送信アンテナから1.6キロ離れたアンテナへの音声送信実験に成功します。
彼自ら発したその歴史的な第一声は「もしもし、そちらは雪が降っていますか? もしそうなら電報で返事をくれ」というものでした。

彼はさらに電波の届く範囲を広げて装置の改良を進め、1906年のクリスマスに一般向けの公開ラジオ放送に成功。
まず蓄音機とレコードでヘンデルの曲を流しました。
続いて彼の助手が自慢の喉で歌を披露する予定でしたが、マイクを前に緊張して固まってしまいます。
それを見たフェッセンデンはすかさずバイオリンを手に『さやかに星はきらめき』という曲を自ら歌いながら演奏したのでした。

決して上手くはなかったようですが、それでもラジオ放送の産みの親フェッセンデンは、ラジオに出演した世界初の音楽家でもあるのです。

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