2015年1月アーカイブ

1/25「余市が育んだスポーツの絆」

昭和16年の夏。
北海道の余市でスキーのジャンプ台が建設されます。
当時の余市中学校の校長が、中学生のためのジャンプ台を作りたいと竹鶴政孝(たけつる・まさたか)氏に相談したのが始まりでした。

この前年に余市の工場からニッカウヰスキーを発売したばかり、会社はまだこれからという難しい時期でしたが、竹鶴氏は快諾すると、私財を投じて建設に取り組み、余市中学スキー部の学生達も夏休みを返上して作業に参加。
のちに竹鶴シャンツェと呼ばれるジャンプ台を完成させています。
ここから育った選手の一人が笠谷幸生(かさや・ゆきお)選手です。

旧余市中学の余市高等学校に学んだ笠谷選手は竹鶴シャンツェで練習を重ねて活躍。
大学を卒業してニッカウヰスキーに入社すると、竹鶴氏は笠谷選手を余市工場に配属しスキー部を創設して全面的に支援しました。
そして5年後、札幌オリンピックのスキージャンプ70m級で笠谷選手は金メダルに輝くのです。
竹鶴氏は「厳しい努力と精進で日本スキー史始まって以来の快挙をやってのけてくれた」と讃え、記念に小学生のためのシャンツェを建設して笠谷シャンツェと名づけます。
ここから育ったのが長野オリンピックの金メダリスト舟木選手でした。

竹鶴氏が亡くなって36年。
竹鶴、笠谷シャンツェは、今も多くの選手を育てています。

1/18「クック船長のザワークラウト」

1778年のきょう1月18日、ハワイのオアフ島にイギリスの帆船ディスカバリー号が到着。初めてハワイが世界に知られた日です。

この船の船長はジェームス・クック。彼はハワイを発見しただけではなく、西回り世界一周や東回り世界一周、南極圏、北極海探検を成し遂げました。
その10年間に及ぶ航海の中でクックは壊血病による犠牲者を一人も出さなかったことでも知られています。

壊血病とは長い航海でビタミンCが欠乏して死に至る病。
ヴァスコ・ダ・ガマの航海では、約170人の乗組員の内100人がこの病気で亡くなっています。
そこでクックは予防策としてザワークラウト:キャベツの塩漬けを大量に船に積み込んだのです。
ところが頑固な船乗りたちは新しい習慣には頑なに抵抗し、誰も食べようとしません。

そこでクックは一計を案じます。
ザワークラウトを、選ばれた者だけの特別な食事として船長である自分と数人の幹部だけに供したのです。
すると1週間もしないうちに「不公平だ。我々にも食べさせろ!」という声が船内に高まった、とクックは航海日誌に記しています。

人間心理を巧みに突いた方法で乗組員全員にザワークラウトを食べさせたクック船長。以後、長い航海で壊血病にかかる者は一人も出なくなりました。

1/11「海を越えた師弟愛」

慶応3年のきょう1月11日、横浜から船でフランスへ旅立った一団がいます。
当時のフランスが日本にパリ万国博覧会への参加を要請。それを受けて幕府は将軍徳川慶喜の弟・昭武を名代とした使節団を派遣したのです。
このとき昭武は13歳。
まだ少年ですが、ゆくゆくは日本の指導者になるものと期待され、万博後もそのままパリに留学して西洋の学問を身につけることになっていました。

フランス政府は昭武に教育係をつけます。
選ばれたのはレオポルド・ヴィレット。46歳の陸軍中佐です。
彼は昭武が学ぶべき学科を立案。
自ら昭武の寄宿先に住み込み、教師として後見人として昭武の世話をします。
共に暮らしながらヴィレットは素直で聡明な少年をいたく気に入りました。
また昭武の方もみるみるフランス語が上達し、ヴィレットと親しく会話を交わすようになります。

しかし、その間に日本では幕府が崩壊。
新政府からの命令で昭武はやむなく留学を中断して帰国の途につきます。
ヴィレットは日本行きの船が待つマルセーユまで昭武を送り、別れの記念にイモルテルの花束を渡しました。
イモルテルとは「永遠」という意味。
昭武の帰国から二人の間で文通が始まり、それはヴィレットが亡くなるまで40年続き、その数は100通以上に及んでいます。

別れの花束が示したように、二人の師弟愛は永遠に続いたのです。

1/4「40万9974人の宇宙旅行」

地球を出発してから7年、星のかけらを拾うために60億キロの宇宙の旅をして平成22年に帰ってきた「はやぶさ」。
はやぶさは無人の小惑星探査機ですが、じつは88万人の人がこのはやぶさに乗り込んでいました。

ことの始まりは平成10年打ち上げの火星探査機「のぞみ」。
当時の宇宙科学研究所が、「あなたの名前を火星に」というキャンペーンを始めました。これは全国から寄せられたメッセージと署名をのぞみに載せるというものです。

集まった署名は約27万人。
残念ながらのぞみは火星にたどり着くができませんでしたが、キャンペーンはその後も宇宙航空研究開発機構に引き継がれ、はやぶさでは約88万人の署名とメッセージを小惑星イトカワへ送り届けたのです。
その88万人の中にはアポロ11号で月に降り立った宇宙飛行士オルドリンや映画監督スピルバーグ、SF小説家のブラッドベリといった名前もあります。
日本だけではなく、世界中の宇宙ファンがはやぶさを応援していたのです。

そして、去年12月に打ち上げられた「はやぶさ2」がいま、52億キロにも及ぶ宇宙の旅を続けています。
この無人の小惑星探査機に乗り込んでいるのは、40万9974人。
はやぶさ2は40万9974人分の夢や想いを乗せて、めざす小惑星に向かって進んでいるのです。

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