2015年4月アーカイブ

4/26「平成の花咲かじいさん」

今年も藤の花が季節を迎えていますが、ひとりの男性の熱意から生まれた藤の名所があります。

始まりは35年ほど前のことでした。
大阪の泉南市に住む梶本昌弘さんは、妻の幸代さんが生け花用に買ってきた1本の藤の苗が捨てられそうになっているのを不憫に思い、自宅の庭に植えるのです。

その後、小学校校長を定年退職した昌弘さんは藤の生命力に魅了され、剪定から肥料やり、害虫駆除など世話に没頭します。
その熱意に応えるように藤はたくさんの花をつけ、道行く人が足を止めるほどになると、昌弘さんは庭を開放して花見客にお茶などを振る舞い、いつしか「平成の花咲かじいさん」と呼ばれるようになるのです。

生まれ育ったふる里に感謝し「地域の藤にしたい」と、熱く語っていたという昌弘さん。ところが、肺がんのため79歳で亡くなります。
すると、生前、昌弘さんの呼びかけで結成された藤保存会の人々がボランティアで藤の花守となり、昌弘さんの思いを引き継ぎます。

それから7年。今では1本の藤の木から、なんと4万を越える花の房が見事に咲き誇る藤の名所となったのです。
ひとりの思いから始まった昌弘さんの藤の庭。
そこには今年も、花守達に迎えられて、たくさんの花見客が集っています。

4/19「ボローニャソーセージ」

オペラ『セビリアの理髪師』や『ウイリアム・テル』で有名な作曲家ロッシーニ。彼は生涯に39曲ものオペラを作曲していますが、最後の作品を作ったのは37歳のとき。
人気の絶頂にあったロッシーニは突如、引退を発表したのです。
これからますますの活躍を期待されたにも拘らず、彼は以後二度とオペラを書くことはありませんでした。

引退後に始めたのは、パリに開いたレストランの経営と、彼のふるさとボローニャで豚を飼うこと。
なぜこんなことを始めたのか。その謎を解くカギは少年時代にあります。

ロッシーニは8歳でボローニャの音楽学校に通いますが、これが大の勉強嫌い。いつの間にか登校拒否になってしまいます。
そこで両親は町の肉屋に丁稚奉公に出すことにしました。
大いに喜んだのはロッシーニ本人。彼はボローニャソーセージが大好物で、肉屋で働けば毎日好きなだけソーセージが食べられると思ったのです。
しかし、この子どもらしい思いは叶えられることなく、目の前に大好きなソーセージが並んでいるのに、自由に食べることができないという絶望感だけを味わって、逃げ帰ってきました。

仕方なく再び音楽学校に通い始めたロッシーニ少年。
心の中には「いつか好きなだけボローニャソーセージを食べてやる」という決意があったのかもしれません。

4/12「パン代官の外交術」

きょう4月12日は「パンの記念日」。幕末の天保13年4月12日に江川英龍が日本で初めてパンを焼いたことに因みます。
英龍は伊豆韮山の代官ですが、蘭学を学び、溶鉱炉を建設したり西洋式帆船を建造したり、天然痘予防にワクチンを普及させるなど、豊かな才能を発揮。
パンも西洋の携帯食として注目し、自ら作ってみたのです。

あるとき伊豆下田に突然英国の軍艦が来航。いきなり港の測量を始め、下田の住民たちを不安にさせました。
下田奉行が駆けつけ、即刻港から出て行くよう船に呼びかけますが、船は無視して下田港に居座ります。
そこで、交渉役として英龍が乗り出しました。彼は普段は木綿の着物を着る質素な人でしたが、交渉を前にして金銀で飾り立てた刀と錦織りの陣羽織・袴をあつらえ、また家来たちにもきらびやかな羽織袴を新調。そして英国船に乗り込んだのです。

一行の豪華絢爛な出で立ちは、それだけで英国船の艦長を平伏。
英龍が厳かに日本では外国船の入港を拒否していることを伝えると、英国船は素直に下田から退去しました。
相手の意表をつく奇抜な外交術は、英龍のマルチな才能のひとつだったのです。

ところで、英龍が日本で初めて焼いたパンですが、数年前、彼が書き残したレシピに沿って地元・伊豆のパン屋さんが忠実に再現したところ、硬くて硬くて、とても歯が立たない代物だったそうです。

4/5「カナダ移民たちの星」

明治時代、カナダのバンクーバーへ1万人以上の日本人移民が海を渡りました。
彼らは漁業や林業などで一生懸命働きましたが、一方では差別や偏見で苦しめられます。

そんな彼らに勇気を与えたのが、日系2世で結成したアマチュア野球チーム「バンクーバー朝日」。
緻密な技術と機動力を持つ強豪チームでしたが、グラウンドの中も差別と偏見が満ちていました。
体格に勝るカナダチームからはことあるごとにラフプレイを仕掛けられ、また審判も明らかに朝日に不利な判定をするのです。

でも朝日の信条は徹底したフェアプレイ。
対戦相手からどんなに乱暴なことをされても抵抗せず、審判からどんなに理不尽な判定をされても一切抗議はしないという姿勢を貫いたのです。
日系人ファンからは「ここまでされてなぜやり返さないのか」と苛立ちの罵声を浴びました。

しかし、観客たちの心は次第に変わっていきます。
最後まで諦めないひたむきさと紳士的なプレイスタイルで戦う姿に声援を送るようになったのは、対戦相手のカナダ人ファンたち。やがてその輪が広がり、バンクーバー朝日はついにリーグ優勝を果たしたのです。

スポーツで差別と偏見の壁を乗り越えた日系人チーム。
その史実が近年になって掘り起こされ、2003年、バンクーバー朝日はカナダ野球殿堂入りを果たしています。

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