2015年6月アーカイブ

6/28「十月に舞う蛍」

6月とともに季節を終える蛍。
ところが、これからシーズンを迎えるのが長野の志賀高原・石の湯のゲンジボタルです。

標高約1600mと日本一高い場所に生息地があり、5月から、なんと時には10月まで、日本一シーズンが長い石の湯のゲンジボタルは国の天然記念物に指定されていますが、この蛍を見出し大切に育んできたのが、元高校教諭の三石暉弥さんです。

37年前の昭和53年に長野西高校に教諭として赴任した三石さんは、多くの生徒が蛍を見たことがないことに驚き、生徒達と蛍の研究や保護に取り組むのですが、そこで石の湯のゲンジボタルに出会ったのです。
三石さんは教諭を退職後も長野ホタルの会、会長となって研究を続け、蛍の生息地の上限とされる標高をはるかに上回る石の湯が、温泉がわいて水温が適度に保たれること、蛍が10月になっても舞うことなど、他の生息地にない独自の自然環境や生態を次々に発見。
こうした努力が実って、平成20年に国の天然記念物に指定されたのでした。

絶滅の危機すらあったという石の湯のゲンジボタルを、生徒やホタルの会の仲間、地域の人々とともに復活させた三石さん。
「子供達に自然の素晴らしさを伝えたい」と、83歳の今も、蛍の保護に意欲的に取り組んでいます。

6/21「1番ティグラウンドまで」

1965年のきょう6月21日、全米オープンゴルフ選手権でゲーリー・プレイヤー選手が初優勝。
この瞬間、全米オープン、全英オープン、マスターズ、全米プロの4大タイトルを制覇する史上3人目のキャリア・グランドスラムを達成しました。
彼は努力、勤勉、正直さ、探究心を大切にし、いつも冷静沈着なゴルフをすることでゴルファーたちの尊敬を集め、79歳になったいまも元気に活躍していますが、一度だけゴルフで慌てふためいたことがあります。
それは、遅刻。

ゴルフは時間厳守のスポーツ。1番ティオフの時間を5分過ぎると失格になるのですが、ある大会でゴルフ場に向かうクルマが大渋滞に巻き込まれてしまいます。
「このままでは開始時間に間に合わない・・・」。
焦った彼はクルマを降りて走り出しました。
そこへ通りかかったのが、渋滞をすり抜けてきたバイク。
彼は手を広げてそのバイクを停め、名乗って事情を話し、ゴルフ場まで乗せてくれるよう頼み込んだのです。

こうしてなんとか開始時間に間に合ったゲーリー・プレイヤー。
彼はゴルフの心構えとして数々の名言を残していますが、遅刻を戒める名言として、この日バイクの人にかけた言葉がそのまま伝えられています。
それがこちら。
「私を後ろに乗せて1番ティグラウンドまでノンストップで走ってくれませんか」。

6/14「密航の代償」

幕末・元治元年のきょう6月14日夜、北海道は函館の港から一人の若者が小舟を漕いで、沖に停泊している外国船に向かいました。
彼の名は新島敬幹(けいかん)。
後に同志社を創立した明治の教育者・新島襄(じょう)です。
まだ22歳の若き新島はアメリカ合衆国の自由と民主主義に憧れ、留学するために密航を企てたのでした。

同じ時代に密航を企てたもう一人の若者がいます。
それは吉田松陰。が、彼は乗り込んだ外国船の船長から乗船を拒否され、国禁を犯した廉で投獄されてしまいます。

一方、新島が向かったアメリカの商船ベルリン号では、船長のウィリアム・セイヴォリーが小舟を漕いで来た新島に、役人から見えないよう船の反対側から乗り込むように指示し、命をかけて密航した新島を快く受け入れたのでした。

セイヴォリー船長は新島をキャビンに招き入れ、アメリカに上陸しても困らないようにと、航海の間ずっと英語を教え込みました。
この親切な計らいで新島は1年後にアメリカに留学することができたのですが、
セイヴォリー船長は日本人の脱国を手助けしたことで解雇され、船長の職を失ってしまいます。
しかし彼は新島を恨むことはなく、後にアメリカで新島に再会して旧交を温めたときも、そのことには一切ふれなかったそうです。

6/7「ベンチの中の人道的プレイ」

日本の卓球が世界の強豪となったのは、戦後に初出場した世界選手権でした。
このとき男子シングルとダブルス、女子ダブルスと団体の4種目で優勝。
しかし、当時の日本選手達は相手の選手以外とも戦わなくてはなりませんでした。それは日本に対する欧米の観客達の憎しみ。
太平洋戦争で日本から大きな被害を受けたことから反日感情が強く、試合会場でのブーイングや審判の不平が目立ったのです。

1955年の世界選手権オランダ大会。
日本とハンガリーの男子団体戦で、前後左右に揺さぶる凄まじいラリー戦になります。
ハンガリー側はセペシ選手。小児まひで右手の自由が利かない障害を乗り越えて国内チャンピオンになったサウスポーです。
そのセペシが、ラリーで日本選手のスマッシュに押され、日本ベンチのフェンスまで下がり、勢い余ってベンチの内側に仰向けに転倒。
その瞬間、ベンチ内にいた日本選手たちは身をよけるのではなく、床に身を投げ出してクッションとなったのです。
「右手が動かないセペシはバランスが取れずに頭から床に落ちる」と咄嗟に判断した日本選手達が反射的にとった行動でした。

フェアプレイならぬ、ベンチの中の人道的プレイ。
この小さな出来事を境に、観客たちは日本選手の好プレイにフェアな拍手を送るようになったのです。

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