2015年8月アーカイブ

8/30「4粒の種から奇跡の復活」

夏から秋にかけて旬が続く野菜、茄子。
その濃い紫色は茄子の代名詞ですが、実は宮崎では戦後の頃まで、佐土原という地域で古くから栽培されていた淡い赤紫の茄子、佐土原茄子が広く親しまれていました。
ところが、栽培しやすくて収穫量も多く、見栄えの良い濃い紫の茄子が好まれるようになって、次第に忘れられていったのです。
その復活に取り組んだのが宮崎の農家の人々でした。

最初の一歩は農業試験場にわずか100粒ほど残されていた種で、なんと発芽したのは、たったの4粒。
そこから育てた苗を託された農家の外山晴英さんが、試行錯誤の末にやっと実らせて収穫したとき、「こんげ美味しい茄子は、もっとみんなに食べてもらわんといかん!」
と痛感したといいます。

その後、外山さんは「佐土原ナス研究会」を設立。
初代会長に就任して、10名ほどの農業の仲間達と懸命の取り組みを続けますが、収穫量が少ない上に、形や大きさにバラつきがあり、出荷できる茄子はわずか。しかも馴染みのない佐土原茄子は安くしか売れず苦労の連続でした。

しかし「宮崎の伝統野菜を絶対に絶やさない」という熱い思いが実り、県外へ出荷されるまでになって、今ではその美味しさが、福岡の人々も魅了し始めています。

8/23「もうひとりのグラバー」

安政6年8月23日、長崎にグラバー商会が開業しました。
代表はトーマス・ブレーク・グラバー。幕末から明治にかけて活躍した実業家です。

グラバーには日本人女性との間に生まれた息子がいます。
トーマス・アルバート・グラバー。日本名は倉場富三郎。
商才に長けて外交的だった父グラバーと比べ、物静かで内向的な性格の少年・倉場にはひとつの葛藤がありました。
それは自分が英国人なのか日本人なのかというアイデンティティです。

父の命により倉場は東京で大学時代を過ごしますが、周りから混血であることをからかわれ、差別を受けます。
ところが再び戻ってきた故郷は違いました。
古くから多様な民族と文化が混じり合った長崎の町では、倉場が英国人だろうが日本人だろうが、そのどちらでもなかろうが、人々は快く受け入れたのです。
倉場は愛する長崎の町が商業と観光で栄えるための事業に力を注ぎ、居留地の外国人からも地元の人々からも人望を集めました。

生涯を長崎で暮らし、74歳で亡くなったのは昭和20年。長崎に原爆が投下された2週間後のことです。
彼の遺言によって遺産37万円が長崎復興のために寄付されました。
現在の貨幣価値でおよそ10億円。
壊滅してしまった故郷に、再び多様な民族と文化が混じり合った美しい町が蘇ることを、倉場富三郎は願ったのです。

8/16「女性数学者の生き方」

大正2年のきょう8月16日、東北帝国大学に3人の女性が合格しました。
それまでの大学は旧制高校を卒業した男子のための学校で、女性が大学に入学することはありえませんでした。

日本初の女子学生になったのは、黒田チカ、丹下ウメ、そして牧田ラクの3人。化学を専攻した黒田と丹下は卒業後、生涯独身を通してそれぞれ植物学、栄養学の研究で優れた業績を挙げました。
一方、数学を専攻した牧田ラクは在学中に論文を発表。黒田や丹下同様、将来が期待されていました。

ところが、大学を卒業したラクは、ほどなく新進気鋭の画家と結婚をします。
彼女は「結婚によって数学の研究を捨てては、せっかく女子に門戸を開いてくれた大学に申し訳ない」と、師範学校で教鞭を振るいます。
が、それも1年で退職。夫は妻が職を持つことに反対だったのです。

専業主婦になったラクは、それでも家庭で数学はできると考え、専門書を取り寄せて研究し、論文を発表。これは世界的な数学雑誌に紹介されています。
それが日本初の女子学生としての牧田ラクの唯一の業績でした。

晩年、ラクはこう語っています。
「私が主人の犠牲になったといいますが、とんでもございません。私は主人と共に生きようと決心し、自ら選んだ喜びの道として歩んで来たまでのことなのです」。

8/9「或る情報部員の思い」

長崎県美術館は、長崎ゆかりの美術はもちろんですが、スペイン美術の作品数は東洋一の規模を誇っています。
ピカソやダリなどスペイン絵画の数は500点以上。その基になったのは、須磨弥吉郎(すまやきちろう)という人が寄贈したコレクションです。

須磨は戦前の外交官で、昭和15年に特命公使としてマドリードに赴任。その仕事の傍ら膨大な数のスペイン絵画を購入しました。
その須磨コレクションは昭和45年に全国の美術館で巡回展示され、最後に回ってきた長崎に寄贈されたのです。
それにしても、秋田出身で長崎に何もゆかりがない須磨が、なぜ長崎に貴重なコレクションを寄贈したのか?
じつは戦前の彼の外交官とは表の顔で、裏では日本の内閣情報部員。つまりスパイだったのです。

彼はマドリードを拠点に欧米諸国の諜報活動をしていましたが、その過程で米国が原爆を開発して既に製造段階に入ったことをつきとめます。
そのことを彼は何度も日本政府に送り続けましたが、須磨の情報は生かされることなく、原爆は投下されたのです。

晩年、彼は広島、長崎の惨劇を防ぐことができなかった自分の複雑な胸中を周囲に漏らしていたといいます。
コレクションの安住の地を長崎に求めたのは、
須磨の長崎の人々へ捧げる鎮魂・・・レクイエムの思いだったのです。

8/2「織田ポール」

日本人が初めてオリンピックの金メダルを獲得したのは、昭和3年のきょう8月2日。アムステルダム大会でのことです。

金メダリスト第一号となったのは、陸上の織田幹雄。この日行われた三段跳びで15m21を記録して優勝したのです。
それ以来、日本は一躍世界の第一線に躍り出ますが、この日までは日本人がオリンピックで優勝するなど、だれも想像しませんでした。
そのせいか、織田選手の表彰式でとんでもないことが起こります。
国旗掲揚の日章旗が用意されてなかったのです。

急遽、アムステルダムのデパートに問い合わせましたが、他国の旗はあっても、極東 の小さな島国の国旗などはないとのこと。
係員がうろうろしているのを見て、掲揚台に駆け上がったのは織田選手自身。
彼が抱えていたのは、優勝したらこれをまとって場内を一周しようと密かに用意してきた大きな日の丸のマントでした。

これを係員に渡し無事に日の丸は揚がったのですが、その光景に会場は騒然。
なんと 両側にはためく2位、3位の国旗に比べて、真ん中のポールにはためく織田の日章旗は4倍の大きさだったのです。

この偉業を讃え、国立競技場に彼の記録15m21cmの高さの白い国旗掲揚ポール「織田ポール」が建てられました。
栄光の織田ポールは、来たる東京五輪に向けた新国立競技場に移設されます。

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