2015年11月アーカイブ

平成25年、福岡に残されていた女性化学者、黒田チカの研究資料が「化学遺産」に認定されました。
大正2年に29歳で東北大学化学科に入学し、日本初の女子帝国大学生となった女性です。

佐賀に生まれたチカは東京の女子高等師範学校に学び母校の助教授となりますが、東北大学が女性の入学を認めると、文部省が「前例これなきことにて頗る重大なる事件」と難色を示す中、3名の女子合格者のひとりとなったのです。

大学卒業後は、植物の色素の研究で数々の成果を挙げるなど化学者の道を邁進し、還暦を過ぎて取り組んだタマネギの色素ケルセチンの研究では、血圧降下作用を発見して特許を得ると高血圧治療薬を誕生させています。

「天然のものは正直ですから、真をもって一生懸命で向かったら必ず門を開きます。どんなに難しいことも悲観せず、困難に遭えば遭うだけ張り合いがあると考え、ますます勇気と真心で向かうのが最善の道であることは、化学に限らず、すべてに通じるものと思います」と語ったチカ。

生涯独身だったチカは甥を養子に迎え、昭和43年11月、家族に看取られ84歳で福岡で亡くなりました。
そして、日本初の女子大生誕生から100年の平成25年。
チカの貴重な研究資料や遺品は、遺族によって東北大学へと寄贈されたのです。

11/22「化石ハンター」

19世紀の初め、イギリスで恐竜の全身化石が発見されました。
この発見によって、地球には絶滅した動物がいることが初めて明らかになったのです。

世紀の大発見をしたのは、メアリー・アニングという12歳の少女。
彼女が住む海沿いの町は化石が豊富にあることで知られ、貧しい暮らしのアニング一家を支えるために、メアリーは子どもながらに海岸を歩き回って化石を掘り出しては、それを売ってお金に換えていたのです。

彼女はその仕事を成人になってからも続けます。
結婚することもなく、日焼けしないように帽子を目深に被り、だぶだぶの服を着て、ごつい男物の靴を履き、化石を入れる籠を下げ、鏨(たがね)とハンマーを手に海岸を歩き回るメアリーの姿は、近所の人たちから「女化石屋」とからかわれ、疎外されました。
しかし、化石を買う学者たちはメアリーを高く評価し、彼女の暮らしを支えるために援助する人もいたのです。
貧しさのために無学だったメアリーですが、化石の専門知識を独学で学び、本当に価値のある化石を見分けて発掘し、学者たちに提供していきました。

化石発掘に生涯を捧げたメアリー・アニング。
地質学研究の発展に大きく貢献した彼女は、貧しい暮らしのまま47歳にして乳がんで世を去る数か月前に、ロンドン地質学会の名誉会員に選ばれています。

11/15「女性鉄道員事始め」

日本に初めて鉄道ができたのは明治5年の新橋・横浜間ですが、その31年後、明治36年11月16日、その鉄道会社が初めて女性職員を採用しました。
明治の日本では女性は選挙権すらなく、家庭で育児や家事をして一生を過ごすのが当たり前。
でもそれと同時に、女性の社会進出を押し進めていく運動も起こり、男の職場というイメージが強かった鉄道会社が女性を入れてみることを試みたのです。

新橋駅の出札係に採用されたのは4人で、17歳と18歳の少女たちでした。
初めての女性採用に、周りの男性たちはいろいろと心配したようです。
「ちゃんと仕事ができるのか」「体力はもつのか」「乗客との間にトラブルが起きたときに対処できるのか」 果ては、「出札の窓口からのぞき込む客が出てくるのではないか」「職場間の男女の風紀が乱れるのではないか」という声さえ上がりました。

しかしそんな周囲の心配をよそに、彼女たちはてきぱきと、いきいきと仕事をこなしていきました。
それどころか、若々しく明るい彼女たちの働きぶりと、乗客たちに親切で丁寧な対応が評判となり、鉄道利用客を増やす効果さえもたらせたのです。
そんな彼女たちの頑張りのおかげで、その後、東京、大阪、神戸などの大きな駅でも女性の採用が広がっていきました。

現在、全国の鉄道会社で女性が大活躍。
鉄道は男の職場ではないのです。

11/8「ナイスボギー事件」

昭和62年11月8日、全米女子プロゴルフツアーで岡本綾子選手が賞金女王に輝きました。
アメリカのビッグタイトルをアメリカ人以外の選手が手にしたのは初めてで、合わせて年間最優秀選手賞も獲得。岡本選手がアメリカ・ツアーに挑戦して7年目に達成した快挙でした。

全米各地で戦う選手の多くはトーナメントを転戦する費用を自分で賄います。
日本のようにメーカーやゴルフ関係の企業と契約を結んで、経費の心配をせずに出場することはありません。
さらに日本人である岡本選手の場合は言葉の壁もありました。人種差別のやじをかけられたこともあります。

そんな彼女の長い孤独な戦いを支えてくれたのは、ツアー仲間の選手たち。
会話がうまく伝わらないときは、何度もゆっくりと身振り手振りを交えて教えてくれたり、レストランに一人で入ろうとすると、ウチに来ていっしょに食事しようと言ってくれたり。
誰もが常に「May I help you?」の精神で接してくれたのです。

そんな体験をしてきた岡本選手。
ある日本の大会で、同じ組で回っていたアメリカ選手がパットに失敗してボギーを叩いたとき、日本人ギャラリーの中から「ナイス・ボギー!」という声が上がります。
その瞬間、岡本選手は「そんな心ない、恥ずかしい声を上げないで!」と、涙を流して抗議したのです。

11/1「心のふるさと」

あす11月2日は「白秋忌」。詩人・歌人・童謡作家の北原白秋の命日で、白秋の故郷である福岡県柳川市ではその遺徳を偲んで「白秋祭水上パレード」が行われています。

白秋にとって柳川は単に出身地ということだけではなく、創作活動の母体ともいえる心のふるさとでした。
白秋はこの地で文学の素養を磨き、19歳で本格的に文学の道に進むために上京します。
ところがその後、柳川の実家の家業が倒産。一家は大きな負債を抱えたまま、逃げるように柳川を離れ、東京で暮らす白秋を頼ります。
白秋は、故郷に自分が帰る居場所を失ってしまったのです。

それから20年後。新聞社の計らいで白秋は柳川へ帰郷する機会に恵まれます。 東京で一緒に暮らす父母や兄弟にもいっしょに行こうと誘いますが、父親は「家業を倒産させ、周りの人たちに迷惑をかけた柳川に帰るわけにはいかない」と頑に拒みました。
白秋自身も父親の負債を継ぐ者として後ろめたさを感じていたのですが、そんな不安を持ちながら柳川へ帰った白秋を待っていたのは、日の丸を掲げて心から歓迎する柳川の町の人たち。
このことから白秋は改めて柳川を"心のふるさと"として愛するようになったのです。

昭和17年11月2日に白秋が亡くなった後に、遺作が刊行されました。
それは水郷・柳川の風景と白秋の瑞々しい文章を合わせた写真集です。

アーカイブ