2016年1月アーカイブ

2016年1月31日「福大生が箱根から世界へ」

今年の箱根駅伝で2連覇を果たした青山学院大学の原監督が「箱根駅伝を全国区に」と発言して話題になっていますが、実は東京オリンピックが開催された昭和39年の第40回大会に福岡大学が出場しています。
招待参加のため参考記録ですが、往路は6位、総合で13位と大健闘。
このとき花の2区を6人抜きの区間新記録で走ったのが重松森雄さんでした。

重松さんは高校卒業後、実業団に進んだものの病に倒れ福岡大学に進学。
箱根を走る機会に恵まれて自信をつけ、東京オリンピックのマラソン代表選考レースに出場しますが惜しくも選ばれず悔しい思いをします。

「素質はなかった。でも人一倍負けず嫌いだった」という重松さんの快進撃はその翌年、福大4年生のときでした。
ボストンマラソンを大会新記録で優勝すると、イギリスのウィンザーマラソンで、東京オリンピックで優勝したエチオピアのアベベの記録を更新する世界最高記録で優勝という快挙を成し遂げたのです。

それから50年余り、現在75歳となり福岡ランナーズクラブネットワーク会長を務める重松さんは、福岡マラソンの開催に尽力したり、母校の福岡大学市民カレッジでランナーの指導を行うなど、レジェンドの活躍は今も続いています。

2016年1月24日「マンロー先生のクッキー」

北海道・日高山脈の麓に、「アイヌの聖地」と呼ばれる二風谷(にぶたに)という村があります。
昭和6年、この村に一人の年老いた英国人が移り住みました。
彼の名はニール・ゴードン・マンロー。
明治23年に来日した彼は横浜で医者として活躍する傍ら、アイヌの文化や世界観に惹かれ、その研究にも打ち込みます。
そして68歳でようやく、アイヌの聖地に暮らすという夢を果たしたのです。

マンローはアイヌの人々に向けて無料の診療所を開きます。
往診もこなし、暮らしの相談から農作業のアドバイスまですることもありました。
看護士の妻が作る「マンロークッキー」と呼ばれるお菓子をもらうために、子どもたちは嫌な注射も我慢したそうです。
マンローはアイヌの伝統的な結婚式や葬式にも招待され、長老たちから先祖伝来のしきたりや儀式、狩りの仕方や鮭漁の方法など様々なことを教えてもらい、それらを丹念にノートに記録していきました。

二風谷村のアイヌの人たちに慕われていたマンローですが、戦争が近づく時代になると村の外では「ガイジン」「スパイ」と囃し立てられ、石を投げられることもありました。
それでも彼は日本に留まり続け、昭和17年、アイヌの人々に見守られながら二風谷で息を引き取ります。

ニール・ゴードン・マンロー。
アイヌを愛し、アイヌとともに生きた唯一の人類学者です。

平成7年1月17日に起こった阪神・淡路大震災。
奪われた命と生き残った人たちの思いを結ぶために、自治体や個人、企業、団体の手で自然発生的に多くの慰霊碑・追悼碑が建立され、その数は現在、300箇所近くまで増えています。

明石市の明石公園の一角にある石碑もそのひとつ。
建立に力を尽くしたのは、いまは亡きジャイアント馬場―馬場正平さんです。
明石公園は昭和30年代、プロ野球のキャンプ地で、当時巨人軍に入団していた馬場さんがここへキャンプに来て、後に妻となる女性と知り合った思い出の地。
その明石が震災で大きな被害を受けたのです。

震災直後、馬場さんがまず行なったのは、ファンクラブの名簿を一軒ずつチェックして被災したファンを見舞うこと。
自ら一人一人のファンが身を寄せる避難所を訪ね、救援物資を手渡していったそうです。
さらに震源地の淡路島では被災者を励まそうと無料でプロレスを興行。
その一環で、心のふるさとである明石市民の力にもなりたいという思いから義援金を贈呈したのです。

そのお金で建てられた震災モニュメントの石碑ですが、そこにジャイアント馬場の名前は刻まれていません。
何事も目立ったことを好まず控え目な性格の彼が個人名を嫌ったのです。
その代わり、建てられた石碑の高さは2m9cm。ジャイアント馬場の身長です。

2016年1月10日「許すまじ無賃乗車」

いまから150年以上前―1863年の1月10日、イギリスのロンドンに世界最初の地下鉄が開通しました。
この時代の日本は幕末期。
地下鉄はおろか、鉄道自体まだ想像もできないでいましたが、産業革命を経て世界の工場として君臨していた当時のイギリスでは既に鉄道は当たり前。
ロンドンには建物がたくさんあったため地上に新しい鉄道を敷くことができず、ならば地面の下を走らせようということになったのです。

3年間の工事で完成した地下鉄は、パディントン駅とファーリンドン駅を結ぶ約6キロの区間。
これは150年後の現在でも現役の路線として使われています。
また、世界最古の地下鉄だけあって、ロンドンの地下鉄は幽霊がよく出る場所として有名でもあります。

たとえばチャーチル首相の幽霊が出たという目撃談。
じつは第二次世界大戦にドイツ軍の空襲を避けるためにチャーチルは地下鉄の駅で閣議を開いたことがあり、その史実を基にした幽霊です。
このような幽霊騒ぎに対して、ロンドンの地下鉄当局は利用者に次のように呼びかけています。
「もし駅のホームや車内で幽霊を見かけたら、無賃乗車の疑いがあるのでただちに地下鉄職員に知らせてください」

"幽霊からも運賃を取ろうとする強欲なロンドン地下鉄"というのは、ロンドンで古くから言われているジョークなのです。

2016年1月3日「最初に一日が始まる国」

2016年の元旦。
その初日の出を世界で最初に迎えたのはキリバスという国です。

キリバスは赤道直下の太平洋に浮かぶ33の島々から成り立つ国。
南の島の素朴な暮らしが残っていて、和気あいあいとした国民性で争いや犯罪はほとんどなく、大人も子供も目が合うとにっこり笑って挨拶をしてくれます。

ただひとつ、不便なことがありました。
それは東西5000キロに及ぶ国土の真ん中を縦断している日付変更線。
つまり、変更線の東と西とでは日付が異なり、時差が24時間近くあるのです。
そのため国内で役場や企業同士が連絡を取り合う際には、西側の島が月曜日の朝に東側の島に電話をすると、現地はまだ日曜日の朝で出勤していないというややこしい事態になります。
金曜日に東側から西側に電話すると相手は既に土曜日。
実質的には週4日しか仕事にならないのです。

この不便さに悩まされてきたキリバス政府はついに1995年、日付変更線を国の一番東の島まで移動させると宣言しました。
日付変更線はもともと東経180度の線のはずですが、いま世界地図を見るとその線はキルバスで大きくコの字型に変形しています。
なんと、キリバス政府の宣言を世界が認めたのです。

これによってキリバスは国内の24時間時差を解消することができ、おまけに「世界で一番最初に一日が始まる国」となりました。

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