2016年11月アーカイブ

2016年11月27日「冥王星のその先へ」

昨年、天体探査機ニューホライズンズが冥王星に最接近して話題になりました。
実は、この探査機には冥王星の発見者クライド・トンボーの遺灰が搭乗しています。
探査機打ち上げの9年前、90歳で亡くなる際に「遺灰を宇宙に持っていって欲しい」と遺言していたのです。

遺灰が納められた容器には、「この中には、冥王星と太陽系の『第三領域』の発見者である米国人のクライド・トンボーの遺灰が納められている。
アドレとムロンの息子、パトリシアの夫、アネットとオールデンの父、天文学者、教師、だじゃれ好き、そして友人である、クライド・トンボー」と記されています。

冥王星の他にも、多くの銀河や彗星、小惑星を発見したトンボーは、小惑星のひとつを妻のパトリシアから「パッツィ」と命名。
娘と息子、孫達の名前にもちなんで命名しました。
家族を愛したトンボーの温もりが伝わりますが、ニューホライズンズが冥王星に最接近したとき、息子のオールデンさんは「父が、みずから発見した冥王星を訪れ、さらにその先の宇宙まで旅を続けるなんて、こんなに喜ばしいことはない」と語っています。

家族にも愛されたトンボーは、宇宙のニューホライズンズ「新たなる地平」へ向かって、今も旅を続けています。

2016年11月20日「引きこもって30年」

明治から昭和にかけて活躍した画家・熊谷守一(くまがいもりかず)。
東京美術学校を首席で卒業した熊谷は、ろうそくの明かりに浮かぶ自画像で文展に入賞し、光と影の画家・レンブラントの手法を受け継ぐ画家として将来を嘱望されます。
しかし、画風は写実的なものから単純明快な線と色を使った、いまでいうグラフィックデザインのようなものに変化していきました。
好んで描いた絵のモチーフは、身近な動物や植物などの小さな生命。

60代になると家を一歩も出ない引きこもりが始まり、それは30年間続きます。
30年もの間、一日中家の中で何をしていたのかというと、昼間は庭先で見えるチョウやカエルなどをじっと観察し、草や花に熱心に見入り、夜になればアトリエに入って、描けても描けなくても2時間制作。
寒い季節は"冬眠"と称して絵を描きませんでした。

一匹のアリを描いた作品があります。
一見、稚拙な線だけで描いた子どもの落書きのようにも見えますが、いまにも動き出しそうな生命力を感じるこの作品について、熊谷は生前、こう語っています。
「地面に頬杖つきながらアリの歩き方を何年も見ていると、アリが左の2番目の足から歩き始め、どの順序で脚を動かしていくかを発見しました」

1点の作品を描くために何年も観察を続ける。
それが、画家 熊谷守一30年間の引きこもりだったのです。

2016年11月13日「コメットハンター」

昭和22年のきょう11月13日午後8時に、本田彗星が発見されたという記録があります。
発見したのは本田実さん。
彗星の発見を目的に天体観測に取り組む人をコメットハンターと呼びますが、本田さんは日本人のコメットハンターの草分けです。

10歳の少年期に星空の美しさに魅せられた本田さんは、貯めた小遣いでレンズを買って望遠鏡を自作。
以来、78歳で亡くなるまで一貫して夜空を見上げては彗星を探し続け、その生涯に12個の彗星と11個の新星を発見しました。

28歳のときに熱烈な恋愛の末に結婚しますが、結婚式のわずか2日後に赤紙が来ます。 徴兵され、妻と別れて戦地に赴きました。

部隊はシンガポールに駐屯しましたが、軍事機密ということで居場所を家族に知らせることはできません。
日本で心配する妻になんとか自分のことを知らせることはできないか・・・
そう思った本田さんは一計を案じます。
撤退したイギリス軍が捨てていった望遠鏡を拾い、それで天体観測をして彗星を発見したのです。
この記録がシンガポールから日本の東京天文台に運ばれると、新聞は「空に科学する兵士」と書き立て、本田さんの妻は夫が南方に元気でいることを知ったのでした。

本田さん晩年の言葉をひとつ紹介します。
「星、それは空にあるもの。心にあるもの。そして自ら輝くもの」。

あす11月7日は冬の始まり 立冬です。
晩秋から初冬にかけて木枯らしが吹き始めると、ほっこりと暖かい炬燵が恋しくなります。
部屋全体を暖めるペチカやストーブと違って、必要最小限の空間だけを暖める炬燵は、世界中でほとんど日本だけで発展してきた暖房器具。
その始まりは室町時代にさかのぼり、江戸時代には床に置いた火鉢に櫓を据えて布団で覆った置き炬燵が庶民の間に広く親しまれていました。

明治42年の冬、当時日本で活躍していた英国人の工芸家、バーナード・リーチが東北のある家を訪ねて置き炬燵に入ろうとしました。
しかし正座も胡座もできない彼は炬燵にうまく入ることができません。
そこで気の毒に思った家の主が椅子を用意。
リーチは椅子に腰掛けて足の先だけを炬燵に入れてなんとか暖をとることができたのです。

この苦い体験から彼は、自分のような西洋人でも炬燵を楽しむことはできないものかと考えた末、東京の自宅の床に半畳ほどの穴を空けて炭を置き、その上に櫓を据えて布団を被せた腰掛け炬燵を作りました。

現在、一般的に掘り炬燵と呼ばれているものは、じつは日本の伝統ではなく、明治の日本で活躍した英国人、バーナード・リーチの知恵から産まれた作品だったのです。

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