2017年11月アーカイブ

日本で初めて映画が公開されたのは明治29年11月25日のことですが、それから17年後の大正2年、アメリカの創成期のハリウッドで映画の主演を果たし、日本人初の国際女優となったのが青木鶴子でした。

実は鶴子は、博多出身で明治時代に活躍した新派劇の創始者 川上音二郎の姪で、明治32年、わずか9歳のときに川上一座とともに渡米して子役として舞台に立ちます。

ところが、一座は金を持ち逃げされるという不運に見舞われ困窮。
このときアメリカで画家として成功していた青木瓢斎が窮状を見かねて鶴子を養女に迎え、裕福な家庭の子女が通うとされるボーディングスクールに学ばせるなど、我子のように大切に育てたといわれます。

成長した鶴子は映画界に進み、当時の大物監督トーマス・インスに見いだされて24歳のときに「ツルさんの誓い」という作品で主演を務め、英語が堪能な着物姿の日本人女優として人気を博すのです。

まるで映画のストーリーのようなドラマチックな道を力強く歩んだ鶴子。
彼女に不幸をもたらしたかに見える音二郎も、幸運をもたらした瓢斎も、すべては鶴子の人生に欠かせぬ脇役でした。

2017年11月18日「緑のおばさん」

昭和34年11月19日、緑のおばさん制度が始まりました。
東京都が母子家庭の救済事業として、小学生の登下校時の交通整理にあたる女性を採用。その後各地に広がったのです。

いま52歳のサトルさんには或る思い出があります。
小学生だった頃、彼は緑のおばさんが苦手でした。
それは子どもたちを安全に誘導するだけではなく、あれこれ指導するからです。
「よそ見しないで!」「走らない!」「縦一列に!」と小言のオンパレード。
挙げ句には服装の乱れや言葉づかいにも注意するのです。
閉口したサトルくんたちは、緑のおばさんを避けて遠回りすることにしたのですが、そのことが学校に知られ、先生にこっぴどく叱られてしまいます。
翌日からまた緑のおばさんの誘導に従うことになりますが、
「きっと緑のおばさんが学校に言いつけたんだ」
そう思った彼らはおばさんを無視するように顔を背けて道路を渡っていました。

そんな登下校が6年間続いた最後の日、道路を渡るサトルくんの背後から声がしました。
「6年間頑張ったね。卒業おめでとう!」
振り向くと緑のおばさんがにっこり笑っています。
答える言葉が出ないまま道路を渡ったサトルくんは、おばさんに向かって深いお辞儀をしたそうです。

現在、緑のおばさんは全国からほぼ姿を消し、その役割は地域住民のボランティアに引き継がれています。

2017年11月11日「西郷くんと吉井くん」

明治14年11月11日、日本初の鉄道会社「日本鉄道」が設立されました。
現在の東北本線や高崎線などJR東日本の路線の多くは日本鉄道が建設、運営していました。

日本鉄道の初代社長に就任したのは、吉井友実。
知る人ぞ知る幕末の志士で、西郷隆盛、大久保利通、そして坂本龍馬らと行動をともにして活躍し、維新後は官界で重用された人物です。

とりわけ吉井の幼なじみで親友だったのが西郷隆盛。
明治維新の際、功績があった吉井も西郷も朝廷から位を授かりますが、その式典に西郷が出席できなかったので、代わりに吉井が西郷の名を届け出ました。
ところがそのとき、吉井は勘違いして西郷の父親の名を届け出ました。
その名が「隆盛」。
じつは西郷の本名は「隆永」だったのです。

後日、吉井は西郷に平謝りしましたが、西郷は「よかよか」と気にせず、以後そのまま名前を「西郷隆盛」で通したのです。
西郷が鹿児島に下野して政府に反旗を翻した際に二人は袂を分かちましたが、その後に西郷の名誉回復に一番熱心だったのは吉井でした。

東京の上野駅といえば西郷さんの銅像ですが、明治時代、上野駅は日本鉄道の始発ターミナル。
社長の吉井が亡き西郷隆盛を偲んでこの地に建てたのです。

2017年11月4日「パンダ王国」

昭和47年11月4日、中国から初めてパンダが上野動物園に贈呈されました。
この日から45年。
日本のパンダといえば上野動物園というイメージがありますが、じつは和歌山県の動物園「アドベンチャーワールド」では23年間で14頭のパンダが生まれ、現在5頭の親子パンダが暮らしています。
中国をのぞけばパンダ出産の数が世界一なのです。

その立役者は獣医師の林輝昭さん。
「希少動物や絶滅危機にある動物を繁殖させることが動物園の使命だ」と考え、過去20年でアドベンチャーワールドのチータを118頭繁殖させ、動物園では難しいとされる北極グマの繁殖も成功させています。

ところが、当時の中国では絶滅危機にあるパンダの繁殖研究に専念するため、国外に出すことを止めていました。
そこで林さんは「中国だけでパンダを増やすより、世界の動物園と協力し合って増やしていくほうが有益だ」と中国の関係者に熱心に説いて回ったのです。

林さんの努力が実ったのは昭和63年。
繁殖を目的としたパンダの貸し借りを行う契約が世界で初めてアドベンチャーワールドで実現。
そして中国側の期待に応え、パンダを次々に繁殖させることに成功したのです。

林さんは昨年病気で亡くなりましたが、彼の意志を受け継いだ飼育員チームが、きょうも熱心にパンダの繁殖に取り組んでいます。

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