2018年8月アーカイブ

2018年8月25日「88年前のトモダチ作戦」

関東大震災が起きたのは大正12年9月1日正午前。
大混乱の中、国内唯一の国際無線電信局がアメリカに第一報を伝えたのは夜になってのことでした。

日本の惨状を知ったクーリッジ大統領は直ちに救援を決断すると、大統領令を発してアジア艦隊などに救援物資を積んで日本へ急行するよう命令。

ラジオ放送で全米に救援を呼びかけると、義援金の募金運動を開始し
「1分早ければ1人多く助かる」を合い言葉に、目標の500万ドルを遙かに上回る800万ドルを短期間に集め、最終的には1200万ドルもの義援金を日本へ送るのです。

当時アメリカは増え続ける日系移民問題などで反日感情が高まっていました。しかし、世界のどこよりも早く最大規模の支援を行ったアメリカ。

実は17年前にサンフランシスコ地震によって甚大な被害が発生した際、日本は日露戦争の後で財政が極めて苦しい中から、政府と国民が力を合わせ多大な見舞金を送っていたのです。

関東大震災から88年後の東日本大震災でアメリカが行った「トモダチ作戦」は「911アメリカ同時多発テロ」に日本が消防救助隊を派遣したことに起因するとされ、オバマ大統領はクーリッジ大統領を参考にしたと言われています。

善意が次なる善意を、感謝が次なる感謝を育んだのです。

2018年8月18日「放浪画家が見た花火」

今年の夏も全国各地で花火大会が開かれています。
最近では、あちこちの花火大会を巡ってカメラで撮影するのが趣味という人も増えています。
そんな花火マニアの元祖が、放浪の天才画家・山下清です。

昭和12年、当時の擁護学校・八幡学園で暮らしていた15歳の山下は、先生の引率で江戸川の花火大会を見に行って感銘を受け、このときのことを貼り絵にしたものが、花火をモチーフにした最初の作品。
18歳になると学園を飛び出して15年間も放浪生活をしますが、その間あちこちの花火大会を巡り歩き、作品にしています。

その後、天才画家として全国に知られるようになると、毎年のように各地の花火大会から招待され、観覧席を用意されるほどになりました。
その中で代表的な作品が『長岡まつり大花火大会』。
夏の夜空に打ち上がる大輪の花火。下に目をやると川面に映る花火の光が静かに揺れています。
川原には、何万ものひしめき合う群衆。その歓声までもが聞こえてきそうです。

山下がこの花火大会を見たのは昭和24年。
戦後4年目で、戦災で亡くなった人々の慰霊として花火大会が行なわれていることを聞かされた山下は、花火を見つめながらこう呟いています。
「みんなが爆弾なんか作らないで、きれいな花火ばかり作っていたら、きっと戦争なんて起きなかったんだな」

2018年8月11日「41年目の競泳」

1936年のきょう8月11日、ベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎ決勝で、前畑秀子選手が3分3秒6の世界新記録で優勝。
日本女性初の金メダルに輝きました。

彼女がゴールした直後にプールの中で抱き合ったのは、0.6秒遅れて2位でゴールしたドイツのマルタ・ゲネンゲル選手。
二人はお互いライバルとして認めあい、この大会で「マルタ」「ヒデコ」と呼び合う仲でした。
表彰式で二人が誓ったのは、4年後の東京大会で再会して金メダルを争うこと。ところが戦争のせいで東京大会は幻となり、オリンピックは1952年まで開催されませんでした。
その間、戦後の東西冷戦のために前畑さんが住む日本とゲネンゲルさんが住む東ドイツの間では手紙のやりとりさえできなかったのです。

ようやく二人が再会を果たしたのは1977年。
62歳になった前畑さんがベルリンを訪れ、66歳のゲネンゲルさんと41年ぶりに抱き合いました。
そして長年心に秘めていた友情の糸をたぐり寄せるように、二人は一緒にプールで50mをゆっくりと泳いだのです。

1995年、前畑さんが亡くなったことを新聞記者から知らされたゲネンゲルさんは、「ヒデコや私が生きた時代は過ぎ去った」と遠くを見ながらつぶやき、その5カ月後に前畑さんを追うように亡くなりました。

二人は人生の最期まで接戦を演じたのかもしれません。

2018年8月4日「希望の路面電車」

広島の町を走る広島電鉄の路面電車は総延長35キロの路線を持ち、一日平均15万人が利用する日本一の路面電車です。

大正元年に開業し、100年以上走り続けていますが、この長い年月の中で一度だけ電車が止まったことがあります。
そう、昭和20年8月6日午前8時15分。
原子爆弾によって広島の町が焦土となってしまったときです。
そのとき70両の路面電車が町を走っていましたが、朝の通勤で満員だった乗客は6000人以上と推定。
とりわけ爆心地付近を走っていた電車の乗務員、乗客たちは一瞬のうちに亡くなりました。

その3日後。
未だ火災が燃え広がる広島の町に、聞き慣れた音が響き渡りました。
遠くからだんだん近づいてくる音の正体は1両の路面電車でした。
生き残った広島電鉄の社員たちが包帯姿で復旧作業を開始し、壊れた電車を不眠不休で修理して、この日なんとか1両の電車を走らせることができたのです。
力強く走る電車を見て生き残った人々は驚き、喜びをかみしめました。

復興の道しるべとなって広島の人々に勇気を与えた1番電車・650系652号は、いまも被爆電車として平和を訴えながら広島の町を走っています。

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