2019年8月アーカイブ

2019年8月31日「無線通信士の大奮闘」

96年前の大正12年9月1日に発生した関東大震災。
テレビもラジオもなく通信手段も乏しかった時代に、甚大な災害発生を伝えようと大奮闘したのが無線通信士達でした。

東京・横浜が壊滅状態の中、難を逃れた横浜港の十数隻の船舶には避難民が殺到。
三千人余りがごった返す「コレア丸」には神奈川県警察本部長が泳ぎ着き、急遽「救済本部」が設置されます。
救援を求める手段は船舶無線しかありません。
ところが空の上は大量に発信された電波で大混乱状態に陥っていたのです。

凄まじい混信を止めなければ通信は不可能と判断した「コレア丸」の川村通信士は、逓信大臣の許可を受けずに、すべての通信の中止を命じる「オール・ストップ」を連打。
これは通信法規上の違反行為でしたが、非常事態の中での勇気ある決断でした。

これを受けた通信士達の冷静な判断も加わり、通信は次々にストップ。
こうして「本日正午大地震大火災起こり、死傷幾万なるやも知れず、至急救援たのむ」と公式の第一報を発信した川村通信士は、仲間と抱き合って号泣したといいます。

その後四昼夜にわたって必至の打電を続け、これを陸上の無線局が大阪など各地に仲介。
無線通信士達の懸命の努力が救援を早め、多くの人命救助を果たしたのです。

2019年8月24日「ベル先生の想い」

グラハム・ベルといえば電話を発明した人として知られていますが、なぜ電話を発明しようと考えたのか?

じつはベルの父親は、耳が聞こえず言葉を発生できない聴覚障害の人たちのために、言葉を発音する口の動きを記号で表して目で見て理解できる「視話法」という発声法を考え出した人でした。
というのもベルの母親が重い聴覚障害で、少年時代のベルもまた母に寄り添って、父が発明した視話法で母親と会話していたのです。

大人になったベルは父親の後を継いで聴覚障害の人たちに視話法を教える学校を開きます。
その学校にやって来たのが、ヘレン・ケラーという少女。
ベルは彼女のためにアン・サリバンを家庭教師として紹介し、長年ケラーを支援しています。
またベル自身は視話法のほかに耳が遠い人のために補聴器の研究を重ね、その過程から生まれたのが、音声を電気信号に変換して伝えること、すなわち電話だったのです。

晩年、ベルはこう語っています。
「世の中の人たちは私が電話の発明以外、何もしなかったと思っているようだ。確かに電話の発明でたくさん儲けた。
 しかしそれよりも、私は口がきけない人がもっと楽に口がきけるようになれたらどんなにいいだろうと思っている。それができたら私は本当の意味で幸せになれたのだろう。」

2019年8月17日「世の中で一番怖い先生」

日本がオリンピックで初めてメダルを獲得したのは1920年のアントワープ大会。
テニスの熊谷一弥が、シングルス・ダブルス共に銀メダルに輝きました。

福岡県大牟田市に生まれ育った熊谷は小学生時代にテニスに出会います。
小学校には教職員のためにテニス道具一式がありました。
当時、テニスは大人がやるスポーツで、教職員たちが校庭にネットを張ってテニスの練習をする様子を、大勢の子どもたちが見物していました。

ある日のこと。教師の一人がテニスを見物している小学生の熊谷に球拾いを命じました。
その教師は熊谷にとって世の中で一番怖い先生。渋々球拾いを務めます。
やがて、ただ玉を拾うだけではつまらなくなり、その辺りに落ちていたラケットを握って、飛んでくる玉をひょいひょいと受け止めるようにしました。
何かの拍子に高くバウンドした玉をジャンプして打ち返したところ、それがいい角度で相手コートに飛び込ます。
その瞬間「うまいぞ!」という先生の声。
世の中で一番怖い先生から誉められた熊谷はすっかり有頂天になり、進んでテニスの球拾いを買って出ると、ラケットを握らせてもらいテニスに夢中になっていったのです。

晩年、熊谷は「あの先生の一言が私をテニスの世界にいざなってくれた」と語っています。

2019年8月10日「宇宙で結婚」

地上から約400km上空の国際宇宙ステーションでは、宇宙飛行士が長期滞在しながらさまざまな実験や研究をしています。

2003年に第7次クルーの一員となったロシアの宇宙飛行士マレンチェンコ。
彼には地上の基地であるジョンソン宇宙センターで働く女性スタッフの恋人がいて、半年の任務を終え地球に帰還した夏に結婚式を挙げる予定でした。

ところが宇宙センターから、マレンチェンコの任務を秋まで延長するとの指令が出ます。
当然、結婚式は延期になるかと思いきや、彼は予定通り式を挙げることにしました。

式の当日、宇宙にいる花婿と地上にいる花嫁は、200人の参列者の前で衛星中継のモニターを通じてお互いをみつめながら結婚を宣誓。
宇宙ステーションでは同僚の宇宙飛行士がシンセサイザーで結婚行進曲を演奏して盛り上げ、最後に、その宇宙に向かって花嫁が投げキッスを送って式は終了。
さらに後日、花嫁がはめていた結婚指輪は、無人の貨物輸送船プログレスに積まれて宇宙ステーションに届けられました。

その後、宇宙飛行士が打ち上げの前に署名する契約書には「宇宙滞在中の結婚式を禁止する」という新しい条項ができています。
つまりマレンチェンコは、宇宙で結婚した最初で最後の宇宙一幸せな人物になったのです。

2019年8月3日「引き裂かれた絵」

「ピアノの詩人」と呼ばれるショパン。
学校の音楽室に飾られている肖像画の中でも、19世紀ロマン主義を代表する画家・ドラクロワによって描かれた絵には、じつはショパンの切ない失恋話が隠されています。

ショパンが26歳のとき、ジョルジュ・サンドという6歳年上の女流作家と出会います。
お互いに惹かれ合い交際を始めた二人。
そんな二人の様子を、ドラクロワが1枚の油絵に描いています。
その絵には右側でショパンがピアノを弾き、左側にはその音色にうっとり聴き入っているサンドの姿が。
愛する人と暮らす中でショパンは次々と名曲を産み出し黄金時代を築きます。

が、仲睦まじい関係が10年ほど続いた後、サンドはショパンの元を去り、その2年後ショパンは39歳で生涯を閉じました。
そして二人を描いた絵は、ドラクロワの死後、何者かの手によって二つに切り裂かれたのです。
ショパンとサンドが結ばれなかったので絵も別れることにしたのだとか、二つの作品にしたほうが高く売れるからなどと言われていますが、真相はいまも分かりません。

現在、切り裂かれたショパンの方の絵はパリのルーブル美術館に、サンドの絵はデンマークの美術館に離ればなれに所蔵されていますが、二人の墓は、パリの同じ墓地に仲良く建っているそうです。

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