匠の蔵~words of meister~の放送

筑紫亭【老舗料亭 大分】 匠:土生かおるさん
2016年05月28日(土)オンエア
日本の歴史を彩るに名士たちに愛され、今も全国の食通が足繁く通う明治34年創業の老舗料亭『筑紫亭』の女将、土生かおるさん。福沢諭吉や前野良沢を生んだ中津の地に料亭を構え115年...名物の鱧料理や2003年に国の有形文化財に登録された大正3年建築の建物などを通じ、日本の食文化と伝統文化を今に伝える。
「ここ『筑紫亭』の屋号の由来は、確かな文献は残っていないのですが、『お客様に心を“尽くし”なさい』という想いから初代が名付けたのではないかと思います。私は『筑紫亭』に嫁いで早半世紀になりますが、その想いを受け継ぎ、日々お客様に心を尽くすことを心がけています」。そんな土生さんは50歳の時に夫を亡くし、以来、四半世紀に渡り女将として『筑紫亭』の暖簾を守り続けてきたそうだが、当時は西洋の文化がもてはやされていた時代。料亭の経営は苦難の連続だったという。
「昔から料亭は文化を学び、食を囲んで人生の勉強を積む場所とも言われています。ですから私は2千年以上の歴史を有する日本の文化を集約した場所である、そんな宝物(料亭)を潰してなるものかという想いで頑張ってきました。いつか夫には、『こんな苦労をさせて』と嫌みの一つでも言いたいところですけどね」。そう笑う土生さんは幼少の頃にアメリカに憧れ、留学した時に役立つようにと和と名のつくモノすべてを習ってきたという。
「料亭はただ美味しい料理を提供する場所ではありません。日本の歴史や文化を学ぶことができる、感じることができる場所でもありますよね。幸い料亭には様々な分野で一流と呼ばれている方々が、お客様としていらっしゃいますので、今もそのような方々から沢山のことを学ばせてもらっています」。そんな土生さんがその豊富な知識で人々をもてなす『筑紫亭』の、もう一つの名物といえば鱧料理。福沢諭吉が私財(現在の貨幣価値に換算すると5億円相当)を投じて開発の手から守ったという耶馬渓の森と、その森のミネラルが流れ込んだ中津の豊かな海が育んだ真鱧は、ほんのりと桜色をしているのが特徴で、『筑紫亭』では、それをしゃぶしゃぶで提供している。
「鱧しゃぶは『筑紫亭』のオリジナル料理です。出汁の中で白い花が咲いたようにくるりと鱧が丸まったら食べ頃です。現在、鱧料理といえば京都が有名ですが、それはかつて上方と長崎を結ぶ交通の要衝として栄えた中津の鱧が、おそらく流れていったのだろうと思います。福沢諭吉先生が『学問のすゝめ』の印税で、耶馬渓の森を守ってくれたからこそ、今も中津では京都のように梅などで味を付けずとも出汁の旨味だけで、美味しい鱧を食べることができるんですよね」。そのしゃぶしゃぶで頂く鱧の甘みと上品な旨味は、筆舌に尽くせぬ程の感動を食べた者に与えてくれる。ちなみに皇太子殿下が『美味しいですね』と仰ったというポン酢も絶品で、鱧を頂いた後にしゃぶしゃぶの出汁で割って飲むことができるという。
「料亭のサービスの本質は、いかにお客様に感動をして頂けるかだと思っています。私自身も感動している間は雑念が吹っ飛んでいるんですよ。もうオペラのアリアを歌っている、プリマドンナになったような気持ちになって、明日からも頑張ろうと生きる勇気をもらえるんですよね。ですから私は日々、お客様に感動して頂けるような非日常の空間づくりに心を砕いているんですよ。外国の方が来られますとね、必ず『ファンタスティック』と言ってくださいます。そのファンタスティックな世界を、いかに私どもが作れるかですよね。例えば料理ですと家庭では味わえない一手間を加えることが大事です。そして、それが美味しいだけでなく、美しくなければいけません。味も見た目も家庭の料理と一緒であればお金を頂くことはできませんからね。そんな非日常の空間を演出することが私どもの仕事だと思っています」。かの松下幸之助も『商売とは感動を与えることである』という名言を残しているが、そんな人の心を動かす非日常の空間を、一分の隙もなく演出する土生さん。その根底には自らが感動によって心を癒され、老舗を預かる女将として歩んで来られたという想いがあった。
「お客様がいらっしゃる前、まず私はお花を走り回って活けるんですよ。でもお客様がいらっしゃると、パッとシャワーを浴びて涼しい顔をしてシャナリシャナリとお迎えいたします。うふふふ」。常連客にはベルリンフィルのメンバーも名を連ね、度々、『筑紫亭』で演奏会を開いているというが、そんな音楽が大好きで、音楽に感動をもらって歩んで来られたと微笑む土生さんの座右の銘は、『必要、必然、ベスト』という言葉。一見、嫌なこと、不幸なことが起きたとしても、それは自分にとって必要なことであり、必然のことであり、結局は起きて良かった最良のことだというその言葉は、土生さんが『筑紫亭』の女将として歩んできた人生そのものを表していた。

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