2006年11月アーカイブ

11/26放送分 「室伏選手を変えた出会い」

84メートル86センチ。これは1人のアスリートがもつ日本記録。そして世界歴代3位に輝いた数字です。そのアスリートとは、陸上・ハンマー投げの鉄人・室伏広治選手。
アテネ五輪では金メダルに輝き、今季も8大会で連覇を続けていますが、それを支えているのは毎日の地道なトレーニングです。
練習に練習を重ね、トップアスリートの道を駆け上がっていった室伏選手ですが、そんな彼にもスランプに苦しむことがありました。
それは室伏選手が大学生の頃。どうしても記録を伸ばすことができず、ハンマー投げをやめようとさえ思い詰めたそうです。
そんな室伏選手に「いっしょに練習しないか」と声をかけた人がいます。
それは同じ陸上の槍投げで日本記録をもつ溝口和洋選手でした。
初めてのスランプでワラをもすがりたい心境だった室伏選手は、この誘いに飛びついたのですが、そこで驚いたのは、溝口選手の練習量。ひたすら練習に没頭する室伏選手自身が「半端じゃない」とうなるほど、溝口選手のトレーニングは質、量ともに室伏選手をはるかに超えていたのです。
それを目の当たりにした瞬間、室伏選手は、自分はここまでしかできないという限界をいつの間にか自分で勝手に作っていたことを悟りました。
その後、室伏選手の練習量はいっきに倍増。筋肉が動かなくなるまでのトレーニング。そして、また、そこから始める練習が、普段使わない筋肉を呼び覚ましていったのです。
溝口選手との出会いから10年。2003年にプラハで開かれた国際大会で、室伏選手は、84メートル86センチという、日本人が到達したことのない大記録を打ち立てました。自分で作った壁。その殻に閉じこもった室伏選手の姿を映し出してくれたのが、溝口選手という、同じ陸上競技に生きる仲間とのふれあいだったのです。「いっしょに練習しないか」・・・・。
この素朴な呼びかけは、いまもなおアスリートとして進化し続ける室伏選手の心の中に、特別な輝きで刻み込まれているようです。

11/19放送分 「いい夫婦の日 PART 2」

11月22日、今度の水曜日は、語呂合わせで「いい夫婦の日」です。
団塊世代の定年退職後の離婚増加が予想される昨今ですが、こんな素敵な夫婦がいらっしゃいます。

福岡市在住のギタリスト:宮崎たかしさん、奥様の庸子(ようこ)さん。
今年で、結婚35年目を迎えられますが、結婚25年目の銀婚式の時、たかしさんは、ギタリストとしての自分を静かに支えてくれた奥様に自作の曲をプレゼントされました。
タイトルは、「HAPPY ANIVERSARY」。
出会った時のことから、今までの想い、感謝の気持ちを曲に込めて、カセットテープに録音して奥様に聞かせたそうです。
その歌詞には、奥様の庸子さんは何が好きなのかを今でも知っていること。若い時は、自分の愛情を押し付けてしまっていたこと。事情を考えないで傷つくことを言ってしまったこと。年を重ねてくると、ゆっくり、しっとりした関係に愛情の形は変ってきたこと。結婚した時と同じ気持ちを改めてもう一度約束することなどが込められています。
中でも一番伝えたかったのは、「あたたかさ、そして何より、やすらぎをありがとう」ということ。
奥様は、その曲を聴きながら、静かにうれし涙を流したそうです。
宮崎さんに、いい夫婦関係の秘訣を伺うと、こうおっしゃいました。
お互いが自立して、依存はせず、尊敬し合うこと。
そして「大事なのは、心だけど、心を言葉に表現すること」
ご夫妻は、お互いに、「言葉遣い」に気をつけていらっしゃるそうです。
何かを頼む時は、「悪いけど、お願いね」とか、誕生日には、「おはよう」の前に「おめでとう」を言う。批難したりせず、ちょっとしたことでも褒める。「ありがとう」をたくさん言う。そして何よりも声にやさしさをのせる・・・。
言葉の魂、言霊の大切さがいい関係を結ぶようです。

11/12放送分 「日本初の女子留学生」

今から135年前、明治4年の今日。岩倉具視率いる使節団が、横浜港からアメリカを目指し出発しました。この船には5人の少女が乗っていました。
まだあどけなさを残した彼女たちは、日本で最初の女子留学生です。
ワシントンに着いた一行は大歓迎を受けます。その一方で、着物姿の日本人少女たちは好気の目にさらされ、あちこちに引っ張り回されて見せ物扱いされたり、中傷の言葉を浴びせられたりもしました。
少女たちの中には中途帰国してしまう子もいましたが、予定の滞在を遥かに超えて11年間アメリカに留まり、留学生としての使命をまっとうした少女がいました。渡米当時6歳という最年少の津田梅子でした。
彼女を支えたのは、梅子を11年間ホームステイさせ、わが子のように可愛がったランマン夫妻の存在。子どもがいない夫妻にとって、東洋からひとりぼっちでやってきた少女は、天から授かった娘でした。
梅子も、この家では天真爛漫に、のびのびと暮らすことが出来ました。
ランマン夫人は、日本に住む梅子の母親と頻繁に手紙のやり取りを続けました。これは、娘と離れて暮らす母の心配を思いはかっての気遣いなのです。ランマン家に暮らす梅子の様子を丹念にしたためた英文の手紙は愛情にあふれ、梅子の母親の心をどんなにか安らかにしたことでしょう。
やがて、17歳になった梅子が帰国するとき。ランマン氏は別れの言葉として梅子のことをこう書き残しています。
「日出ずる国から訪れた太陽の光であり、我が家を明るくしてくれた」

日本初の女子留学生として6歳で渡米した津田梅子。彼女はその後、女子教育の先駆者として明治日本の近代化に貢献し、「女子英学塾」を創設。その死後、この塾は彼女の名を冠した大学へと発展していきました。

大分県豊後高田市。城下町、港町として栄えた町中には商店が軒を並べ、昭和30年代までは国東半島一の賑やかな街と言われていました。しかし高度成長期を境に元気を失い衰退していきました。
そこで、商店街に再び元気を取り戻そうと、平成13年、一番活気があった昭和30年代をテーマに市と商店街が一緒になって「昭和の町づくり」を始めました。およそ500メートルの通りにある100店舗のうち、当初は、昭和の町づくりに取り組んだのは僅か7店舗。しかし、今では30数店舗が一丸となり、この5年で全国から20数万人を超える観光客を呼ぶ街になりました。

お店の入り口をサッシから木の戸に変え、店には「懐かしい一枚看板」。そして、一店舗に必ずひとつはお宝があり、それぞれの店主が快く丁寧に紹介して下さいます。冷蔵庫は外側が木製、中に氷の塊をいれて冷やします。テレビは真空管の白黒画面。チャンネルはテレビの前まで行ってかちゃかちゃとまわさなければいけません。洗濯機はあっても脱水は手動式。ローラーに衣類を挟んで手でハンドルを回して余分な水気をしぼり出します。金物屋さんには湯たんぽ、アルミの弁当箱、せんたく板。手芸店には現役の足踏みミシン。雑貨店には音楽教室の足踏みオルガン。お菓子屋さんには、アイスキャンディーの行商自転車。昭和の値段のままのチャンポン、なつかしの学校給食やこだわりのカレーパン、コロッケ。メンコやおはじき・・。

「見る」「食べる」「体感する」ことができる街:豊後高田の昭和の町。
全国にもいくつか昭和をテーマにした場所はありますが、人気になっている理由は「この街は人が宝です」ということ。
近年再び注目を浴びている昭和30年代の「貧しくても不便でも生きる手ごたえがあった時代」の素晴らしさを、体の奥まで感じることができる素敵な街です。

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