2006年12月アーカイブ

12/31放送分 「命」

今年2006年の世相を象徴する漢字一文字は、「命」でした。
秋篠宮家の長男「悠仁(ひさひと)さま」のご誕生で「生まれた命」の一方いじめで「自ら絶った命」、飲酒運転事故や痛ましい事件で「奪われた命」など、「ひとつしかない命の重み、大切さを痛感した」ことが1位に選ばれた理由でした。

命の尊さを「体感」できる絵本があります。
タイトルは「いのちのまつり」。佐賀県山内町在住の陶彩画家:草場一壽
(くさばかずひさ)さんが、ここ数年の子供による悲惨な数々の事件をきっかけに「子供達にいのちとは何かを考えて欲しい」と自費出版した絵本です。<2004年からはサンマーク出版され10万部を突破>
沖縄在住のイラストレーター平安座資尚(へいあんざもとなお)さんの明るくユニークな絵が絵本全体に親しみやすさを加えています。主人公の坊やに沖縄のおばあちゃんが言います。「数えきれないご先祖様が誰ひとり欠けても、坊やは生まれてこなかった」と。
絵本の中に八ツ折りのページがあります。
そこに描かれた何代にも及ぶ先祖の絵を子供たちが見て、その圧倒的な数に思わず驚嘆の声をあげます。
「自分の命も、他人の命も、受け継がれてきた大切な命なのだと思った」
「どうも好きになれない人も、もしかしたら、ご先祖様をたどっていけば、ひとつの生物だったかもしれない。命あるもの、みんな大切にしなきゃ」
又、「いのちがリレーされることで終わりではなく、しつけや生き方など様々なバトンがあると思った」・・・等の感想も寄せられています。

絵本の最後で主人公の坊やは言います。
「いのちをありがとう?!」

来年は、もっと、みんなが「命」に感謝し大切にしあう年になりますように・・・。

12/24放送分 「奇跡の灯」

いまから92年前の冬の出来事です。
1914年12月。第一次世界大戦の真只中、イギリス軍とドイツ軍がにらみ合っていました。いわゆる西部戦線です。どちらも塹壕(ざんごう)を掘って、その中で寒さに耐えながらの撃ち合いが何日も続いていました。疲労困憊した兵士達が安らぐのは、故国で帰りを待つ家族の顔を思い浮かべるくらい。

そんな中、ドイツ軍では、後方からクリスマス用の食品や小さなツリーが届けられました。首脳部がもくろんだのは、これで兵士達を勇気づけ、戦いの士気を高めることでした。ところがドイツ兵達は、小さなツリーを見て別の心を動かされました。彼らにはことさらイギリス兵を嫌う理由はなかったし、それでも殺し合いをするのは、双方の将軍たちを満足させるためでしかないことを思い出したのです。そこで兵士達は、塹壕の縁にたくさんのツリーを飾り立て、真夜中になると銃撃を止め、歌を歌いました。

一方対峙するイギリス兵は、この不思議な静寂に、恐る恐る敵の陣地をのぞいてびっくり。両軍の間にできた緩衝地帯にドイツ兵達が集まって歌を歌っているのです。びくびくしながらもイギリス兵達は、場違いに流れる平和な歌声に誘われるように塹壕から這い出て、敵対するドイツ兵に合流。声を合わせた歌声が続きました。やがて前代未聞のプレゼント交換。それぞれの煙草を交換して火をつけ合い、敵同士が握手を交わし、抱き合い、家族の写真を見せ合ったのです。

さらに翌朝。驚くべきことが起きました。緩衝地帯の真ん中をハーフラインにして、イギリス対ドイツの親善サッカー試合が始まったのです。
これは4年間続いた戦争の中で、ほんの数日だけの平和・・・。たとえわずかな間でも、平和を希求する兵士が見せた「奇跡の灯」は、今もなお私達の心に、確かな温もりをともし続けてくれています。

12/17放送分 「飛行機開発者 二宮忠八」

今から103年前、1903年の今日、アメリカのライト兄弟が人類初の飛行実験に成功しました。全長6.4メートル、幅12.3メートルの「ライトフライヤー」の初フライトは、12秒で36.6メートルを達成。
この成果は、ライト兄弟の名を、全世界に知れ渡らせることになりました。

しかし、この2ヶ月前、日本の四国に、人が乗れる機体を完成させていた人がいました。明治時代の技術者、二宮忠八(にのみやちゅうはち)です。「人が乗れる飛行機を作りたい。妻を乗せて一緒に大空を飛びたい」という夢を胸に、たったひとりで開発に取り組んでいました。
ある日、忠八は飛んでいるカラスを見て、羽ばたいていないことに気付き、向かってくる風を翼で受けとめられれば、空を飛べるのではないかと考え、模型飛行機を作成。そしてライト兄弟に先駆けて、人が乗れる機体を完成させました。あとは、エンジンを載せるだけ。ところが当時の日本は、「空を飛ぶ機械」など夢物語で理解されず、資金は自分の収入だけ。エンジンの資金のめどがたたず飛行実験に漕ぎつけることができませんでした。それから間もなくライト兄弟のニュースを耳にした忠八は男泣きしたそうです。以来、彼は飛行機の開発から一切身を引いてしまいました。

その一方で、その後忠八の研究は広く紹介されるようになり、昭和39年、英国王室航空協会に、忠八が開発した人が乗れる「玉虫型模型飛行機」が展示されました。そして、平成3年、その機体にエンジンを載せ飛行実験をしたところ、200メートルの距離を記録。ライト兄弟が、36.6メートルの距離だったので、当時エンジンを載せることができていれば、歴史は変っていたかもしれません。

夢に向かってたった一人で挑戦し、人一倍空への想いを寄せていた二宮忠八。心に刻んでおきたい人物です。

毎年12月10日、スウェーデンのストックホルムで行われるのは、ノーベル賞の授賞式です。日本人が初めてそのステージに上がったのは、1949年。中間子理論の功績によってノーベル物理学賞の栄誉に輝いた湯川秀樹博士です。
湯川博士の受賞は、敗戦国の日本を再生する希望のシンボルとして、国中が喜びに沸き返りました。

その湯川博士がノーベル賞を受賞する1年前。同じノーベル物理学賞を1921年に受賞したアルベルト・アインシュタインに対面したことがあります。その頃、湯川博士はアメリカの大学で客員教授をしていましたが、彼の研究室にアインシュタインが面会を求めて訪ねてきたのです。
20世紀物理学の巨人といわれたアインシュタイン。その当時、湯川博士の中間子理論はアインシュタインにまったく評価されてなかったといわれています。そのアインシュタインがわざわざ自分を訪ねてくるとは・・・・・・。湯川博士は重い気持ちで来客を迎えました。ところが、部屋に入ってきたアインシュタインはいきなり手を伸ばし、湯川博士の手を力強く握りしめました。驚いたことに、その目には大粒の涙が溢れていました。
20世紀の天才科学者は、肩を震わせながら「何の罪もない日本人を、原爆で傷つけてしまった。許してほしい」。何度も何度もこの言葉を繰り返し、湯川博士に謝り続けました。

原爆はアインシュタインの特殊相対性理論を基に開発されました。
そのことにアインシュタインは重い自責の念を抱き続けていたのです。
その姿に湯川博士は衝撃を受け、科学者である前に人間であろうとするアインシュタインの良心に、心が震える思いをしたそうです。
この出会いを機に、湯川博士はアインシュタインを慕って、共に反戦と核兵器全廃を訴える運動に力を入れるようになりました。科学者として、その前に人間として……

12/3放送分 「ディズニーの心」

街中クリスマスのイルミネーションで彩られるこの季節。いつかは東京ディズニーリゾートで過ごしてみたいと思ったことありませんか?
1983年に開園した東京ディズニーランドと、隣接して5年前に開園した東京ディズニーシーの来園者は、先月11月1日、合わせて4億人を越えました。国境や年齢を超えて沢山の人に夢と感動を与えてくれる場所です。
世界一素晴らしい場所にするためには「人」が必要と言葉にしたのは、創始者であるウォルト・ディズニー。

1901年12月5日、アメリカ・シカゴ生まれのディズニーが最初にディズニーランドを開園したのは、1955年、アメリカ・カリフォルニア州アナハイムでした。彼が望んだ夢の国「ディズニーランド」開園前に、ディズニーはこんなことを言っていたそうです。
「幸福感を感じる時はどんな時ですか?おいしい料理を食べた時?自分の目標を達成した時?友情を感じた時?幸福感という心の動きはとても大切なことです。いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。そんな夢の世界を作りたい」と。そして「夢を現実にするのは人である。必要なのは熱意であり、一生懸命で意欲的に様々なことを学ぼうとする人だ。間違いを起こしてもそれを糧にディズニーランドらしいやり方を考えていきたい。」

彼の夢の国で働く人たちも彼の精神を受け継いで「どんな仕事をしている人も、来園するすべての人に幸福感を提供することが、私たちのゴールです。」と言っています。ディズニーの施設内では、掃除ひとつにしても、まるで、ひとつのショーのように優雅に行われています。

場所や施設もさることながら、そこで働く人の、親しみやすい対応や来園者の立場に立った行動、その「おもてなしの心」が人気の秘訣なのでしょうね。

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