2007年12月アーカイブ

12/30 放送分 「笑顔がいい男」

今年、印象深かった出来事のひとつは、日本の人工衛星「かぐや」が世界で初めてハイビジョンカメラで地球を撮影したことです。
環境汚染が広がる世界ですが、それでも「かぐや」から送られてきた地球の姿は、神秘的なほどの美しい惑星でした。その美しい地球を、初めて人類が宇宙から眺めたのは、いまから46年前です。

その人は旧ソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリン。1961年、ボストーク1号の小さな窓越しに惑星・地球を眺めたガガーリンは、そのあまりの美しい光景にずっと口を開けっ放しの放心状態だったそうで、かろうじてひとことだけ「地球の色は青かった」と地上に感想を伝えています。
世界初の有人宇宙飛行に成功したガガーリンですが、その歴史的な宇宙飛行士をだれにするのかという選考は、とても厳しいものでした。
条件は、身長170センチ以下、体重70キロ以下、健康、一人で状況を判断し決断できる人間というもの。航空士官学校から150人のエリートが選ばれました。そこから徹底した選考が始まります。虫歯があるというだけではねられた者もいます。そして残ったのが20人。今度は彼らに厳しい合宿訓練を課し、その成績から2人の最終候補者を選び出しました。
ここまでくると、もう二人とも甲乙つけがたく、最後の決め手として体重が2キロだけ軽いほうの男が選ばれました。

ところが、ボストーク打ち上げの3日前に、この人選がひっくり返ります。
それは、「もう一人の男の方がいい笑顔をするから」という理由だったのです。
だれもやったことがなく、成功するか失敗するかわからない人類の宇宙への旅立ち・・・そのたった一人の代表を、最後の最後に、身体や頭脳の能力ではなく、笑顔という心の部分に賭けたのです。

そして、その「笑顔がすてきな27歳の男」こそ、ガガーリンだったのです。

12/23 放送分 「東京タワー生みの親」

街中がイルミネーションで輝いている季節。いま、冬バージョンの温かいオレンジ色で東京の夜空に一際高くライトアップされているのが、東京タワーです。東京タワーが完成したのは昭和33年。暮れの23日に完工式が行なわれました。つまり、今日12月23日は、東京タワー49歳の誕生日なのです。

その東京タワーの生みの親は、前田久吉(ひさきち)という明治生まれの実業家。彼は新聞配達から身を起こし、やがていくつもの新聞社を経営するまでになった人一倍の努力家です。
タワーの用地買収から設計、建設、安全対策まで指揮をとり、プロジェクトを進めてきた前田久吉。東京タワーが完成したとき、彼は65歳になっていました。

その当時、エッフェル塔を抜く世界一の高さのタワー建設という大事業は、実業家として歩んできた前田の、人生の総決算として輝かしいものでした。
しかし、実はその直後、彼はもうひとつの事業を始めています。
それは千葉県・南房総の、とある山村。ここはいくら井戸を掘っても水は出ず、昔から「水なし村」と呼ばれていました。
村びとたちは、時おり降る雨を水桶に溜めるという暮らしぶりで、雨が降らなければ顔も洗えず、風呂にも入れない暮らし。それを村人たちは「水なし村」の宿命として先祖代々続けていたのです。
この地に乗り込んだ前田は、自ら先頭に立ち、水源を求めて何年も山野を歩きます。やがて、山向こうの隣町に良質で豊富な水源を発見すると、私費を投じてパイプを引き、山を越えて村に新鮮な水を送ることに成功。それは東京タワーが完成して13年後・・・。前田久吉78歳のときでした。

戦後日本の復興を象徴するように空高くそびえる東京タワー。その隣の千葉県で地べたを見ながら歩き回り、ひとつの村に水という夢をもたらせたこと。そのどちらもが、前田久吉という実業家人生の総決算なのです。

12/16 放送分 「グラハム・ベルの思い」

きょうは「電話の日」です。1890年12月16日、東京と横浜の間で、初めて電話事業が開始されたことに由来しています。
電話機を発明したことで有名なグラハム・ベルは、日本で電話が開通する13年も前に、アメリカでその特許を取得しました。

ベルは、電話機を発明する前から、ろう学校で耳が聴こえない子供たちの先生をしていました。
当時は手を使って話をする手話の方が一般的でしたが、彼は、それでは普通の子供たちとコミュニケーションを取ることができないと考え、相手の唇の動きから言葉を読み取り、暗号のような記号を使って正しい発音を覚えさせることに力を注ぎます。
その授業は独創的で、風船やおもちゃを使ったり、自分で作った機械を取り入れたりしていたので、子供たちはベルの授業が楽しみでした。

彼は、子供たちのために、聴こえた音をそのまま記録する「音声記録機」や、人が書いた文字をそのまま伝送する「自筆電信機」を考える中で、離れた場所に声を届ける「電話機」を発明したのです。
この発明品をアメリカ独立記念100周年の博覧会に出品するというチャンスにも、「私には授業がありますから」と断り、周囲の人が、彼をだますように馬車に乗せて連れ出したというエピソードも残っています。

また電話の発明によって、たくさんの富と名声を手にした後も、「自分は生涯、耳の聴こえない子供たちの教育に力を注ぐ」と宣言します。
三重苦で知られるヘレン・ケラーも6歳の時にベルのもとを訪ね、「暗闇にいた私を優しく抱きかかえてくれた温もりは生涯忘れない」と語っています。
偉大な発明の陰には、障害をもつ子供たちに希望の光を与えたいというベルの熱い想いが込められていたのです。

12/9 放送分 「人間のための科学」

ノーベル賞の歴史の中に、ひとつの家族で5つのノーベル賞を手にした例があります。それはキュリー一家。そう、キュリー夫人の家庭です。

マリー・キュリー。彼女は、夫・ピエールとともに放射能の共同研究で1903年にノーベル物理学賞を受賞します。
そして数年後、夫を交通事故で失った悲しみを乗り越えて研究を続け、1911年にはノーベル化学賞を受賞します。
さらに、彼女の娘もまた夫とともに後年ノーベル化学賞を受賞。一族4人で5つのノーベル賞を手にしたのです。
とはいえ、数多くのノーベル受賞者の中でキュリー夫人の名がいまも親しまれているのは、受賞の多さではありません。
彼女は、いつも「人間のための科学」を考え、実践する人だったのです。

彼女はラジウムの発見からすぐに放射線治療の研究に取り組みます。
そしてその研究成果を世界の医療技術のために無償で開放したのです。
また、第一次世界大戦には、彼女は自分で開発したレントゲン装置と発電機をトラックに積み、自らハンドルを握って戦地を回ります。
これによって負傷した多くの兵士が体内に残る銃弾や砲弾の破片の位置を正確に知ることができ、多くの命が救われました。
そんなキュリー夫人は後年、子供たちのために独自の塾を開きますが、その教育方針は、知識よりもむしろ積極的に行動する心、人を思いやる心を育むことだったといわれています。

彼女によって世に広まった放射能。それは使いようによっては未来に不安をもたらすものかもしれないことを感じていました。
だからこそ、医療のために、平和のために科学を利用する人類の良識ある判断を信じていました。
その原点が、人を思いやる心を育む彼女の教育だったのです。

12/2 放送分 「55年のマラソン記録」

54年8ヵ月6日5時間32分20秒3。これは、オリンピック男子マラソンの世界で一番遅い記録です。

1912年、スウェーデンで開かれたストックホルム・オリンピックに日本初の代表として金栗四三(かなぐりしぞう)選手がマラソンに参加しました。
ところが、レース当日は気温が40度近くにもなり、参加者の半分が棄権する事態。金栗も走りはしたものの日射病で倒れてしまい、意識不明のまま近くの農家で介抱されます。
このため棄権の連絡が伝わらず、行方不明という記録で幕を閉じました。

その後、彼は、完走できなかった悔しさをバネに、暑さに耐える走り方など、さまざまな練習法を考案。箱根駅伝は、孤独な長距離の練習をチームで行うという彼のアイデアから生まれたものです。
このように日本のマラソン界に大きな貢献を果たすも、オリンピックでの棄権が唯一の心残りだった金栗。そこに突然、「ストックホルム・オリンピック開催55周年記念式典に招待したい」という連絡が入ります。
「あなたは、あのオリンピックのマラソンで行方不明になったまま。ぜひゴールしに来てください」

この粋な計らいに応え、彼は55年ぶりにストックホルムへ行き、その式典会場で念願のゴールを果たします。
その瞬間、「日本の金栗が、ただ今ゴール!記録は54年8ヵ月6日5時間32分20秒3。これで第5回ストックホルム大会の全日程が終了しました」というアナウンス。金栗は「この長い道のりの間に孫が5人できました」とユーモアを交えて挨拶しました。
一秒でも短いタイムを競い合うマラソンですが、こんな心温まる公式記録もあるのです。

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