2008年8月アーカイブ

8/31「発明王とその助手」

いまから百年以上の昔、1887年8月31日、エジソンが発明した白熱電球に特許が下りました。
この日を境に、世界中の家庭に電灯が普及していきますが、実はその電球のフィラメント:光を発する部分には、日本の京都・八幡(やわた)の竹が使われていました。
この竹を見つけ出したのはエジソンではなく、彼の助手です。

エジソンは、20人の助手を世界中に派遣して、1200種類もの竹を集めました。
その助手の一人が日本を訪れ、時の総理大臣・伊藤博文に会い、その協力を得て京都の竹を持ち帰ったのです。
実験の結果、京都の竹は900時間輝き続けるという驚異的な寿命を記録。
電球の実用化の道を開いたのです。

このように、当時のエジソンは研究所に多くの助手を抱え、彼らの献身的な働きによって、さまざまな発明を成し遂げました。
発明王エジソンとそれを支える助手・・・.
その師弟関係を物語る次のような小さなエピソードが残されています。

苦労の末、ついに白熱電球を完成したエジソン。
「これを2階に持って行っておくれ」
そう言って、若い助手に作り上げたばかりの電球を手渡しました。
ところが次の瞬間、助手は手を滑らせて電球を落として割ってしまったのです。
おろおろと謝る若い助手。
しかし、エジソンは何も言わず黙って作業台に戻ると、もう一度電球を作り始めます。
やがてそれが完成すると、エジソンはもう一度その助手に電球を手渡しながら、にっこり微笑み、こう言ったのです。

「今度は慎重にな」!!

8/24「児童福祉の父」

親のない子供たちに愛の手を差しのべたい・・。
その思いを、生涯を通じて貫き、後に「児童福祉の父」と呼ばれるようになった人がいます。
彼の名は、石井十次(いしいじゅうじ)。
明治20年、医者になることを目指し、岡山の診療所で手伝いをしていた石井は、ある日、二人の子供を連れた女性と出会います。

「病気で主人と一番上の娘を亡くし、子供二人を抱えていては働き口が見つかりません」と途方にくれる彼女に石井は心を痛め、上の子を預かることを約束しました。
このことがきっかけで、石井は医学の道をきっぱりあきらめ、日本で第一号となる「岡山孤児院」を開設し、全国から親のない子供たちを受け入れました。

施設の運営は主に寄付金でまかなっていましたが、石井は自分たちの力だけで生活できるようにと、活版印刷部、理髪部、機織り部など、いくつもの事業部を開設。
中でも、施設の宣伝のために結成された「音楽隊」は、当時ではめずらしい本格的なブラスバンドだったこともあり、子供たちの熱演は各地で多くの人々に感動を与えました。
また、震災や大飢饉のたびに子供たちを受け入れるので、一時は1,200人もの大所帯になってしまいましたが、それでも、15人ほどの子供に一人の主婦をつけ、「お母さん」と呼ばせて家族の温かみを体験させるようにしました。

彼はいつも「親のない孤児よりも、かわいそうなのは心の迷い子だ」と口にし、彼らの悩みを親身になって聞いては、それぞれに合った解決策を示すのでした。
石井が亡くなる時、孤児院の出身者たちは、国内はもちろん、海外からも駆けつけて別れを惜しみました。

生前、石井は自分の故郷でもある宮崎にも孤児院を開設し、彼の深い慈愛の精神は、今もなお、脈々と受け継がれています。

8/17「すべての爆弾を花火に」

この夏、各地で花火大会が開催されています。
新潟県の長岡花火といえば、日本三大花火の一つ。
ここには日本一の花火師といわれる嘉瀬清次(かせせいじ)さんがいます。

日本最大の正三尺玉(しょうさんじゃくだま)やナイアガラは嘉瀬さんが発案したもので、世界各地で開かれる記念式典などでもたびたび打ち上げられています。
嘉瀬さんは阪神淡路大震災の被災者たちを元気づけるために1000発もの花火を無料で打ち上げました。
1988年の新潟県身体障害者スポーツ大会でもやはり花火の打ち上げ代金を受け取りませんでした。
花火を上げるときにせめて嘉瀬さんのお名前だけでもアナウンスさせてくださいと頼まれても、彼は「選手が元気にがんばってくれれば、それだけでよいのです」と頑なに断ったのです。

「花火で人々の心を明るく」いう信念を持ち続ける嘉瀬さんには、ロシアで花火を打ち上げたいという、もう一つの夢がありました。
彼は、第二次世界大戦の終戦後、ソ連軍の捕虜として、3年間シベリアに拘留されていました。
マイナス41度のロシアで過酷な重労働。
仲間は次々と倒れ、6万人以上の日本人が亡くなりました。
ロシアでの花火は、「幸いにも日本に戻ってくることができた自分の役目」と長い間、心の中に持ち続けていた想いでした。

そして1990年、ようやくその想いが実現。
50年ぶりに訪れたシベリアで、戦友たちへ追悼の意を込めて、「白菊」という名の花火を打ち上げたのです。
2年前に長岡市で開かれた「世界の花火ショー」を最後に花火師を引退した嘉瀬さんは現在86歳。
今も抱き続けているのは、「世界中のすべての爆弾を花火に替えたい」という願いです。

8/10「ニコニコ野球」

この夏も、甲子園球場で高校球児たちの熱戦が繰り広げられています。
その歴史の中で「ニコニコ野球」と今も語り継がれるのは、20年前、昭和63年夏の大会に出場した埼玉県代表の浦和市立高校です。

49の代表校の中でチーム打率、平均身長とも最下位。加えてチーム三振数は最多。
間違って甲子園に来てしまったような、普通の公立高校チームが、あれよあれよと勝ち進んでいきました。
ノーマークの学校が、甲子園に来てからいきなり実力を発揮し、強豪校を倒していくのは、そんなに珍しいことではありません。
でも、思いがけない快進撃以上に浦和市立高が異彩を放ったのは、プレーする選手たちのチームカラーだったのです。

打っても打たれてもニコニコ。
野球をやっていること自体が楽しくて楽しくて仕方がないといった笑顔を見せるのです。
その笑顔の裏には、弱小チームならではの強みがありました。
つまり、負けて元々。だから負けることが怖くない。
気負いもプレッシャーもなく、のびのびと野球を楽しむことができたのです。
監督もまた試合に先立って選手たちにこんなゲキを飛ばしています。
「甲子園は高校球児のお祭りだ。エラーもヒットも全部パフォーマンスだ。いつもどおり、思い切ってやってこい!」

敬遠が当たり前の場面でも、
「一番楽しい場面だ。思い切って勝負しろ」という指示に頷くエースピッチャーは真っ向勝負。
ニコニコしながらも強気の投球でピンチを切り抜けていくのでした。

それでも準決勝戦でついに力尽きた浦和市立。
試合終了後にベンチに駆け戻る全選手が最後に見せたのも、やはり素晴らしい笑顔でした。
そのさわやかな笑顔からは、野球だけでなく、彼らの伸び伸びした高校生活が見えるようでした。

8/3「選手村の思い出」

1936年のベルリンオリンピック。
選手村の近くで、一人の日本人選手が子どもたちと遊んでいました。
彼の名は村社講平(むらこそこうへい)。
陸上長距離のアスリートですが、当時の日本人は欧米の選手とは体格面で大きく劣っていて、とてもメダルを狙える力はありませんでした。

選手村に暮らすうち、近所の子どもたちと仲良しになった村社選手は、レースの合間に、少年少女たちと散歩したり、カメラで一緒に記念撮影をしたりして過ごしていました。
そのリラックスしたひとときが功を奏したのか、レースに出場した彼は、1万メートル走も、続く5000メートル走も、スタートからずっと欧米の大柄な有力選手を後ろに従えるように、終始トップを切って走ったのです。
両レースともゴール間際で力尽き、メダルには届きませんでしたが、それでも競技場すべての人が「ムラコソ、ムラコソ!」と大声援。一躍、現地のヒーローになりました。

それから35年後の1971年。
村社さんのもとに、見知らぬ人から電話がありました。
その人がドイツのハンブルグにホームステイした時、ステイ先の主婦が子どもの頃に村社選手と一緒に写っている写真を持っていた、という話でした。
これが縁で、翌年のミュンヘンオリンピックの時、村社さんは、ハンブルクにその主婦を訪ねました。
ベルリンオリンピックの選手村の近所で一緒に過ごした子供の一人が、48歳の主婦になっていたのです。
彼女は、少女の頃の村社選手との思い出ゆえに、ドイツにやって来る日本人の世話をしているとのこと。
以後、二人は家族ぐるみで親戚同様のつきあいを始めました。

いよいよ今週末から始まる北京オリンピック。
その期間はわずか2週間ほどですが、ふとしたわずかなふれあいが、一生につながる、国を超えた思い出をつくることもあります。

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