2008年11月アーカイブ

11/30「瀬戸内の島で眠るイギリス士官」

香川県丸亀市広島。
瀬戸内海に浮かぶ小さな島には、一人の外国人のお墓があります。

日本が明治維新を迎える直前の1866年。
イギリスの軍艦シルビア号が、海底調査のため、瀬戸内海で測量を行っていました。
しかし、「レキ」という名前の乗組員が病気のため、船内で亡くなってしまいました。
乗組員たちは、やむを得ずこの島に上陸し、島の人々が見守る中、レキさんの遺体を埋めて、簡単な十字架を建てて帰っていきました。
ところが当時の日本は、キリスト教はもちろん、十字架を掲げることも許されなかった時代。
レキさんの墓標だった十字架は、役人に見つかってしまい、たちまち焼き捨てられてしまいました。
しかし、この様子を見て、島の人々は哀れに思いました。せめて十字架でなくても、自分たちだけでなんとか弔ってあげたいと、「長谷川三郎兵衛(はせがわさぶろうべえ)之墓」という架空の日本人の名前を付けた墓標を建てました。

そして2年後、明治元年を迎えたと同時に、島人たちは新たな墓石に「英国士官レキ之墓」と本人の名前を刻み、立派なお墓を建て直したのです。
それから、シルビア号が再びこの島に訪れたのは、31年後の明治29年です。
艦長は、昔レキさんと仲が良かった同僚。
旧友を偲ぶため、島に立ち寄った彼らが目にしたのは、美しい花が供えられた立派な石碑でした。
艦長をはじめ乗組員たちは、島の人々の温かい気持ちに感激して胸がいっぱいになりました。

帰国後、この報告を受けたイギリス公使館から島に感謝状が届きました。
レキさんのお墓は、国際親善の証として大切に守られ、今でもお花を手向ける人が絶えません。
その根底にあるのは、異国で一人寂しく眠っている外国人を慰めてあげようとする、島人たちの素朴な気持ちなのです・・・。

11/23「心伝える絵手紙」

きょう11月23日は、語呂合わせで「いいふみの日」。
手紙に思いをしたため、ポストに投函することが少なくなってきた近年ですが、手書きの文字は、手紙を受け取った人に、言葉以上の思いを伝える効果があるようです。

そこで、地域ボランティアの一環として、幼稚園児や小学生たちが手紙を書き、ひとり暮らしの高齢者に届ける活動が全国のあちこちで見られるようになりました。
子供たちは、日ごろ学校で勉強したことや、運動会のかけっこでがんばったことなどを綴り、「これから寒くなるけど、身体に気をつけてね」などのメッセージを添えて、一軒一軒配達します。
また直接訪問して交流を図ることで、お年寄りから昔の遊びや自分たちが生まれる前の町の様子などを学ぶこともできるのだそうです。

こうした取り組みをきっかけに、お年寄りのほうから子供たちに返事を書こうと、お年寄り仲間同士の交流の輪を広げていったケースもあります。
ある団地に住む高齢者の方は、昔、絵をたしなんでいたこともあり、近所の仲間を集めて「絵手紙教室」を開くことを思い付きました。
「ヘタでもいいから、下書きなどせずに、思い切って色をつけてください」と呼びかけると、みんな思い思いの色を重ねていきます。
初めて筆を握る人、書道の経験を生かして筆づかいを自由に楽しむ人などさまざま。
練習を重ねるごとに作品の一つひとつに味がでてきて、個性豊かな絵手紙ができあがります。
趣味としても楽しみ、子供たちに贈るという喜びがあることで、次の作品づくりに益々やる気が出てくるそうです。
おじいちゃん・おばあちゃん達にとっての生きがい。
それは、心のこもった絵手紙を受け取る子供達にとっても楽しみにな「心の交流」になっているにちがいありません・・。

11/16「塀の外の農場」

ドイツ・バーデンヴュルテンベルグ州の小さな町。
この町のある農場では、新鮮な季節の野菜が、安い値段で売られています。
ここで働いているのは、青年刑務所に服役している若い囚人たち。
この農場は刑務所の更生施設で、さまざまな事情で罪を犯してしまった若者が野菜づくりをしています。

農場の周りには鉄条網があるわけでもなく、見張りもいなくて、誰でも自由に出入りできますが、囚人たちは農作業に一生懸命。
これまでに脱走騒ぎがあったことは一度もありません。
また、地元の人々も、刑務所の農場が町中にあることを忌まわしく思っているわけではなく、むしろ若者たちがこの農場での作業を通じて再び社会に巣立って欲しいと応援する気持ちが強いのです。
そばを通りかかった人は、畑仕事に精を出す若者に、にこやかに声をかけたりしています。

ただ、刑務所の予算の関係でこの農場では以前から肥料や農薬を買うことができない状態がずっと続いています。
ところが、ここの野菜はスーパーの野菜と違って有機栽培。
小さかったり不細工だったりしますが、野菜本来の味がして美味しいと評判なのです。
そして、囚人たちは農場で仕事をしながら町の人たちとの触れ合いの中でその評判を直接聞くことが出来ます。
自分たちのしていることが町の人たちに喜ばれているということが、彼らの社会復帰の大きな力になっています。

これから冬になると、野菜はなかなか育ちません。
その代わりに彼らがやるのは、小さなプラスチックの鉢に花の種を植える作業。
来年の春先になれば、この農場は、庭を飾ろうとこぞって花を買いに来る町の人たちでいっぱいになります・・・。

11/9「おそろいの黄色い靴」

アメリカのルーク・ボルディア君・4歳は、生まれつき耳が聞こえません。
これは遺伝によるもので、彼の両親も聴覚障害を抱えています。
ところが最近はテクノロジーの進化によって、小さなマイクを組み込んだ電子送信機を利用して、音を感じることができるようになりました。
ルーク君もこの装置を使って、健常者と同じ幼稚園に通っています。

ただ、この装置は、どんな音でも大きく伝えるため、周りの園児たちが椅子や机をちょっとでも動かすとマイクがその音を全部拾ってしまい、先生の話す言葉が聞き分けられなくなってしまいます。
こうした事情を知った先生は、教室を静かにする方法を考えました。

大人ならともかく、幼稚園児となるといっときもじっとしていることはできません。
皆をおとなしくさせるよりも、むしろ椅子や机を動かしても音が出ない方法はないか・・。
そんな先生の頭に浮かんだのが、黄色いテニスボールです。
「テニスボールは、弾力がなくなったり雨に濡れたりすると、試合には使えなくなり、捨てられてしまう・・。
そのボールを椅子やテーブルの脚に付け、床との摩擦音を和らげるものとして使えるのではないだろうか?」
そこで、先生がこのアイデアを全米テニス協会に相談したところ、なんと400個以上もの使用済みテニスボールが快く送られてきたのです。
ルーク君のクラスでは、そのボールをくり抜いて、椅子と机の脚に被せました。
すると、まるで椅子と机が皆おそろいの可愛い黄色い靴を履いているような、楽しい教室が完成。
もちろん、テニスボールの優れた材質は、椅子や机をどんなに動かしても、その雑音を吸い取ってくれます。

先生の声がとてもよく聴こえるようになったルーク君。
今後は、彼のクラスだけでなく、幼稚園すべての椅子と机に黄色い靴を履かせるそうです。
一人の少年のために寄せられた善意のテニスボールが、幼稚園全体をハッピーな風景に変えていくことになったのです・・・。

11/2「宇宙犬ライカの思い出」

1957年11月3日。
旧ソ連が人工衛星・スプートニク2号の打ち上げに成功し、その宇宙船の中にライカという犬が乗っているというニュースに、世界中がびっくりしました。
50年代当時は、無人ロケットを大気圏外まで飛ばすのが精一杯で、やっとソ連が地球の周回軌道に乗ることに成功したばかり。
つまり、ライカという犬は、このとき世界で初めて宇宙空間に出た生きものだったのです。

このニュースを知った当時の多くの子どもたちが、宇宙服を着た犬が宇宙船を操縦する姿を想像して、宇宙旅行への夢をかき立てられたことでしょう。
しかし、このときは宇宙船が再び地球に帰ってくる技術はまだ確立されてなく、ライカを生きたまま帰還させることは不可能でした。
そこで、打ち上げて6日目の餌にあらかじめ睡眠薬が混ぜられていて、ライカは宇宙で安楽死したと発表されました。

ところが最近になって、スプートニク2号の船内はかなりの高温になっていたため、ライカは打ち上げて数時間で死んだらしいことが明らかになりました。
いずれにしても、宇宙旅行をした犬・ライカは、次のステップ、つまり人間が宇宙に行くための動物実験として使われ、犠牲でもあったのです。

日本初の宇宙飛行士となった毛利衛(まもる)さんが、語っています。
「私はこの犬のことが、50年たったいまでも妙に気にかかっている。
いつの時点で死んだのだろうか。
苦しんだのだろうか。
窓から丸い地球を見ることができたのだろうか。
死んだとはいえ、最初の地球生命として、宇宙に行けたのは幸運だった。
そして地球の大気で火葬にふされた最初の生物でもあった。
燃えて気体となった体は、地球上空を今でも漂っていることだろう」

今、世界のあちこちから宇宙へ向けて有人飛行は行われています。
そこには1匹の犬・ライカの大きな存在があったことを忘れることはできま

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