2008年12月アーカイブ

今年は北京オリンピックも開催され、たくさんのスポーツの感動に出会えた1年でした。
そしてどの競技でも、その裏には選手たちを支えるドラマがあります。

2002年のソルトレイクシティ冬期オリンピック。アメリカのフィギュア・スケート選手、サーシャ・コーエンは、競技用のタイツを紛失するという災難に見舞われました。
コーエン選手といえば、妖精のように美しいスパイラルで観客を魅了する、メダルの有力候補。
彼女は競技場の持ち物検査でカバンの中身を全部出し、大切なタイツをその場に置き忘れてしまったのです。

しかし、彼女がそのことに気が付いたのは、試合直前のロッカールーム。
タイツがなければ出場することができず、しかも新しいタイツを用意する時間は残されていません。
「どなたか、タイツを貸していただけませんか?」
必死で訴えますが、厳しい勝負の世界ですから、誰も彼女の訴えに耳を貸そうとはしません。

ところが、困っている彼女の姿を見て、ひとりの選手がわざわざ自分の履いていたタイツを脱いで差し出しました。
それは、日本代表として参加していた村主章枝(すぐりふみえ)選手でした。
競技の結果は、コーエン選手が4位で、村主選手は5位。
もしもタイツを貸していなければ、順位は変わっていたかもしれません。
コーエン選手は後にテレビに出演したとき、「あの重大な局面で村主選手がタイツを貸してくれたことは、スケートの演技以上に忘れられない出来事だった」と語りました。

村主選手のスポーツマンシップにあふれた行動は、金メダルよりも美しいエピソードとして、オリンピックの1ページに刻まれています。

12/21「元気な商店街」

「さるくシティ403(よんまるさん)アーケード」。
これは長崎県佐世保市の商店街です。
日本一直線距離で長いといわれる全長およそ1キロのアーケードですが、この商店街にはもうひとつの「日本一」があります。

人口流出、高齢化、車社会の発達、郊外大型店の進出などによって、今、全国で時代に取り残され、「シャッター通り」と呼ばれるほど寂れている商店街が増えています。
そんな危機意識をもった佐世保の商店街でも、対策が話し合われました。
そこで考え出されたのが、商店街の売り上げよりも、商店街を舞台に大勢の市民を主役にしたイベントを行って、街全体を元気にしていこうという取り組みです。
それが、「きらきらフェスティバル」。

毎年11月から12月にかけた年末、商店街とその周辺が、100万という数のイルミネーションで飾られます。
その光1個1個のオーナーは市民。
この取り組みは、1口1000円の募金で賄われているのです。
さらに「きらきらフェスティバル」期間中は、連日連夜の楽しいイベントがあります。
そのすべてが、地元の人たちの知恵とアイデア、情熱と協力で催されています。
例えば、長さ1キロのアーケードにテーブルを並べて行われる大パーティ。
店ごとに1人1000円のパーティ券を売って、乾杯用のビールやワインを用意し、あとは持ち込み自由。
花見の宴にも似た感覚が好評で、毎年5500人の市民が家族や友だち、職場、サークル仲間のグループで参加しています。

「売り上げよりも、まず佐世保の街を元気にしたい」との思いで始まった「きらきらフェスティバル」。
今年も今月25日まで連日連夜のイベントが続いています。
そして、このような取り組みで賑わいを見せる佐世保の「さるくシティ403アーケード」は、町起こしの専門家から「日本一元気な商店街」と評価されているのです。

12/14「コミュニティオーケストラ」

コミュニティオーケストラ。
これは、福岡市の精華女子短期大学が中心になって、周辺地域の人たちといっしょに、5年前に立ち上げた交響楽団です。

教育現場や市民によるオーケストラは各地にありますが、大学と地域社会がタイアップしたオーケストラは全国的にもほとんど例がありません。
この試みは、地域に根ざした開かれた大学づくりを目指したものです。
「他の大学でも、社会人でも、音楽を愛好する地域の方々、どなたでも参加してください」と声を掛けたことから始まりました。

しかし、コントラバスなどの大型楽器をそろえるには莫大な費用がかかります。
資金集めに頭を抱える日々が続きましたが、賛同してくれた地域の人との熱い思いが通じ、私立学校の特別補助が認められ、ついに念願の楽器が届きます。
団員集めは、補助金で作ったチラシをあちこちに置いてもらい、地元紙にも掲載をお願いするなど、自分たちでできることはすべてやり尽くしました。

そして半年後。初めての練習に集まったのは、小学生から50代まで、腕に覚えありの40人。さっそくパートごとの特訓が行われ、2時間後には全員で見事にブラームスのハンガリー舞曲第5番を演奏したそうです。
現在、団員は45人。うち大学生は3人で、あとは地域の人たちです。
その大半は若い頃に楽器に親しんだものの、社会人となって触れることが叶わなかった人たち。「再びオーケストラの楽しみを味わえるチャンスを与えられて幸せだ」と語っています。
また初心者でも気軽に参加できる講座も開講し、オーケストラの一員になることを目標に一生懸命練習を続ける主婦もいます。

来年は大学の創立100周年にあたり、記念演奏会が予定されています。
その演奏曲は、ベートーベンの「第九」。みんなで喜びを分かち合う歓喜の歌にふさわしい演奏が響き渡ることでしょう。

12/7「女子マラソンのパイオニア」

近代オリンピックの始まりとともに長い歴史を持つマラソン。
しかし、女性のマラソンランナーが登場したのは、ほんの40年前、1970年代になってからです。
それまでは、そもそも女性が42.195キロを走りきるなど常識外のことだったのです。
その壁を打ち破って女子マラソンのパイオニアとなったのは、専門のアスリートではなく、アマチュアの市民ランナーでした。

旧姓・諏訪美智子さん。
アメリカ人と結婚した日本女性・ゴーマン美智子さんは、夫のすすめで健康のためにジョギングを始めました。
やがて走ることに熱中していった彼女がめざしたのは、マラソン。
1974年、38歳になった彼女は、女子の部ができたばかりのボストンマラソンに出場しました。
この大会は男女いっしょのレース。
彼女が走っていると、何人もの男子ランナーが追い抜きざまに、「がんばれよ」と声をかけていきます。
給水所で受け取った水をとりこぼしてしまった彼女には、隣を走っているランナーが、持っていた氷をひとつくれます。
ほかのランナーのペースを調整しているらしいベテラン選手は、彼女の前になり、後ろになり「リズムを保て、肩を落として楽に走れ、その調子でピッチを上げろ」と助言。
沿道の市民たちも、生まれて間もない女子マラソンを懸命に引っ張って走る無名の主婦に、心からの声援を送ります。

こんな温かく熱狂的な応援を一身に受けながら走るゴーマン美智子。
このときの気持ちを彼女は、「その応援で鳥肌が立つような感動を覚え、体全体が宙に持ち上げられた感じがした」と後に語っています。

そんな多くの人たちの応援を力にして、2時間47分11秒でゴール。
彼女の世界記録から10年後の1984年に、女子マラソンはついにオリンピックの正式競技となったのです。

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