2009年6月アーカイブ

6/28「101個の椰子の実」

愛知県田原市の渥美半島の先端に位置する伊良湖岬には恋路が浜と呼ばれる美しい海岸があります。
ここは、今も多くの人に愛され歌い継がれている
「椰子の実」のゆかりの地として知られています。

「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実ひとつ」。

島崎藤村のこの詩は、かつて伊良湖岬を訪れた民俗学者の柳田国男が海岸に流れ着いた椰子の実に心惹かれ、そのことを藤村に語ったことがきっかけとなって生まれました。
そのエピソードにちなんで、田原市の観光協会が行っているのが椰子の実の投流です。
「遠き島」に見立てた石垣島から、毎年およそ100個の椰子の実を海に流すもので、昨年で21回を数えました。
プレートをつけ、恋路が浜へ流れ着くことを願って流された椰子の実の数は2404個。そのうち101個が、九州は鹿児島や宮崎、熊本、長崎、北は山形など各地に流れ着いています。
2001年(平成13年)には恋路が浜から数キロ東の田原市の和地海岸に流れ着きました。

遠く石垣島から波にゆられて旅をした椰子の実は、流れ着いた海岸で様々な人々に拾われ、101の様々な出会いを紡いだのです。
また回を重ねた投流事業は田原市と石垣島の人々の交流という新たな出会いも育みました。
今年も田原市観光協会は5月27日に110個の椰子の実を石垣島の沖合いから海に投流しています。

今頃、椰子の実達は波にゆられてどこを旅していることでしょう。
この夏、どんな出会いが生まれるのか。
椰子の実を拾うのはあなたかもしれません。

6/21「命のビザ」

ナチスのユダヤ人迫害が激しさを増し、緊迫した空気に包まれていた第二次世界大戦下のヨーロッパ。
各地のユダヤ人たちは、ドイツの北東にある小さな国・リトアニアに行けば、そこでビザを発給してもらい、迫害のない国に亡命できるかもしれない、というかすかな望みに賭けて、リトアニアめざして押し寄せてきたのです。
しかし、このときリトアニアはソ連に占領され、各国の大使館・領事館は強制的に閉鎖されていました。
唯一業務を続けていたのは、日本領事館。
そこに勤めていた外交官が、杉原千畝(すぎはらちうね)です。

祈る思いで日本領事館にビザの発給を願いにきた大勢のユダヤの人々を前に、杉原は戸惑います。
当時の日本はドイツと同盟を結んでいたので、ユダヤ人を救うことは日本政府に反することになるからです。
しかも、占領したソ連からは日本領事館も直ちに閉鎖するように、との命令が下ります。その猶予は3週間。
杉原は決心します。

命の危険にさらされたユダヤの人たちのために、食事もろくに取らず寝る間も惜しんで、来る日も来る日も一枚でも多くのビザを発行し続けたのです。
領事館が閉鎖され、リトアニアを出国する列車の発車間際までビザを書き続けた杉原。
そのために救われたユダヤ人は6000人以上だといわれています。
まさに「命のビザ」だったのです。

それから28年後、68歳になった杉原にイスラエルから招待状が届きます。
彼を待ち受けていたのは、かつて命のビザをもらったおかげで、戦争中、そして戦後を生き延びることができた人たちでした。
晩年の杉原の言葉です。
「私のしたことは外交官としては間違ったことだったのかもしれない。
しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。それは人間として正しい行動だったと思う」

6/14 「イルカの不思議な力」

「イルカセラピー」という言葉をご存知ですか?
犬や馬などの動物と接すると気持ちが癒されるなどの効果がありますが、イルカセラピーは、イルカとふれあうことで、自閉症の子どもたちの療法に役立てようというものです。
しかし、イルカセラピーの歴史は浅く、日本では1996年に研究が始められたばかり。
いまだ解明できない点が多いのですが、試験的な療法の中で、イルカとふれあった自閉症の子どもたちに明らかな変化が見られた、との報告が次々と発表されています。

香川県さぬき市では、自閉症の子どもとその家族を対象に、2泊3日のコースでイルカセラピーが行われています。
自閉症には、周りと上手くコミュニケーションが取れなかったり、自分が知らないものを体験することを極端に恐がる、などの症状があります。
初めは、ライフジャケットを着たり、海の水が顔にかかったりするだけでパニックを起こす子もいます。
そんなとき、不思議なことに、イルカはだれが助けが必要なのかを知っているかのように、泣いている子に近づいてくることがあるのです。
はじめはイルカに激しく抵抗した子どもたちも、やがて「イルカに触りたい」「イルカに餌をあげたい」と意思表示をするようになります。
また、ものごとを待つということができない子も、イルカとふれあうことの不思議な魅力に引きつけられたのか、いつそばに寄ってくるか分からないイルカを辛抱強く待つことができるようになっていきます。

このように海の中でイルカとふれあう体験を終えた後は、「妹への暴力がなくなった」「家で飼っている犬に興味を持ちはじめた」といった声が聞かれます。
子どもの病気を周囲に理解してもらえずに苦しんでいたお母さんは、「自分自身の癒しにもなり、子供と余裕をもって接することができるようになった」と語っています。
イルカには、子どもにも、その家族にも前向きな気持ちをもたらす??そんな不思議な力があるのかもしれません。

6/7「思い出をつなぐ傘」

梅雨の時期になると、なんとなく気分も沈みがちですが、今日は、そんなじめじめした気分も吹き飛ばす、元気な傘職人をご紹介します。

東京にある一軒の洋傘店。
オーナーの鎌田智子(かまたともこ)さんは79歳。
この道65年になる大ベテランです。
彼女は、戦後の焼け野原から立ち直った下町の傘職人に弟子入りし、以来ずっと傘職人の道を歩んでいます。

新しい傘をつくるだけではありません。
壊れた傘の修理も快く引き受けてくれます。
鎌田さんの元に届けられるのは、「父親の形見の傘」だったり、「お嫁に来るときに、母親が持たせてくれた傘」だったり。
壊れても一本の傘にこだわるお客さんがいるからこそ、鎌田さんはどんなに忙しくても、修理の手を休めることはありません。
中には、心棒が腐ってしまったものもありますが、そんなときでも、型番とメーカーを調べて部品を取り寄せ、一本一本丁寧に修理します。
「修理が難しい傘は、寝ても覚めてもそのことばかり考えてしまうの。あの部品をあーして、こーして、って。直せたときは本当にうれしい」と鎌田さん。

そして、彼女のもう一つの傘づくりは、和服で日傘をつくることです。
8年前、彼女のお母様が作ってくれた着物をほどいて日傘をつくったことがきっかけで、「ぜひ、この着物で日傘をつくってください」と、全国から依頼がくるようになりました。
それは、単なるリサイクルではなく、世界に一本しかない芸術作品です。

修理して再び命を吹き込まれた傘も、古い着物から生まれた新しい傘も、鎌田さんが最も大切にしているのは、その傘に込められた思い出。
依頼人の手元に返ってきた傘は、開いた瞬間に、大切な思い出までもが一緒に蘇るのです・・・。

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