2009年7月アーカイブ

7/26「ナイショノオネガイ」

1939年、昭和14年の7月、キングレコード社から童謡の「ナイショ話」が発売されました。
昭和14年といえば、ポーランドに侵攻したドイツに対し、イギリスとフランスが宣戦布告して第二次世界大戦が始まった年です。
日本は不介入を表明するものの、日に日に不穏な空気が高まっていました。

そんな中で発売された「ナイショ話」。
それは子供の心と子供の言葉で書かれた優しさにあふれるもので、多くの人々を魅了しヒット曲となりました。
作詞したのは結城よしを、当時19才の青年でした。
山形県に生まれた結城は、高等小学校を卒業後、好きな本が読めることから書店の店員になって働き、そのかたわら童謡に取り組んでいます。
新聞や文芸誌に投稿したり、仲間と同人誌を発行するなど活発に活動して次第にその才能が認められ、19才の若さで「ナイショ話」が世に送り出されました。

しかし、2年後の昭和16年、日本はハワイの真珠湾を攻撃して、ついに太平洋戦争に突入。
結城も召集され戦争へと駆り出されるのです。
そして、終戦の前年、戦地で病に倒れ小倉の陸軍病院で、駆けつけた両親に看取られて亡くなっています。
24歳でした。
結城の代表作「ナイショ話」です。

「ナイショ ナイショ 
ナイショノオネガイ アノネノネ 
アシタノ日曜 ネ、母チャン」

生きることが困難な時代に、こんなにも心優しい歌を作り出した青年の未来は戦争に奪われました。
今年も間もなく、戦争を見つめ直す8月を迎えます。
結城が遺したこの歌にも、あらためて耳を傾けてみませんか。

7/19「日本発!指先で分かるシャンプー」

「ユニバーサルデザイン」という言葉が、最近あちこちで聞かれるようになりました。
これは、子ども、お年寄り、身体が不自由な人、左利きの人など、あらゆる人にとって使いやすいデザインのことですが、この考え方を最初に思いついたのは、体に障害をかかえる一人のアメリカ人。
彼は車椅子の生活を送る中で、障害者だけに配慮されたバリアフリーではなく、はじめからすべての人に使いやすいものを作って、多くの人に広めたいと考えたのです。

この考え方を受けて、日本で開発された代表的なものが、シャンプーのボトルについているギザギザのデザイン。
目をつぶっていてもすぐに分かるので、とても便利です。

しかし、このボトルの開発は、試行錯誤の連続でした。
例えば、シャンプーとリンスの容器の大きさに違いをつける・・・シャンプーの「シ」の文字と、リンスの「リ」の文字を刻印する・・・さまざまな意見が出ましたが、子どもでも、外国人でも、すぐに判断できなければいけません。
そこで考えられたのが、シャンプーだけに、はしごのようにギザギザが連続したデザインをつけることでした。
ところが、試作品を作って盲学校に持っていってもOKは出ませんでした。
ギザギザを刻む間隔が狭すぎるというのです。
視覚障害の中でも糖尿病が原因の場合、指先の感覚が鈍るケースがあるので、刻む幅の一つひとつにまで気を配る必要がありました。

細かい刻み具合を工夫して、ようやく現在のデザインが完成。
ただ、一つだけ気掛かりだったのは、ほかのメーカーが同じような工夫をリンスのほうにしてしまったら、消費者が混乱してしまうということです。
そこで、このメーカーはアイデアを無料で公開。
そのおかげで、シャンプーのユニバーサルデザインはいっきに海外まで広がっていったのです。
ユニバーサルデザインの考え方が発表されて24年。
商品開発の裏にはいつも、相手の立場を思う優しさと情熱が込められています。

7/12「エルトゥールル号の遭難」

明治23年。
和歌山県串本町の沖合いで、トルコの軍艦が座礁する事故が起きました。
船の名は、「エルトゥールル号」。
船体は真っ二つに裂け、およそ650人もの乗組員が海に投げ出されました。

事故の知らせを聞いた地元・樫野(かしの)村の人たちが浜辺に集まってきました。
そして、運良く浜辺に打ち上げられた乗組員たちに駆け寄り、自分たちの衣服を脱いで彼らに着せ、冷えきった身体を温めてあげたのです。
こうして助かった69人のトルコの人々は、村人たちの住まいに運ばれ、それぞれ手厚い看病を受け、心づくしの食事がふるまわれました。
しかし、樫野は50軒ほどの小さな貧しい集落。
食糧の蓄えはたちまち底をつき、残っているのは非常用のにわとりだけとなりました。
それでも、村の女性たちは、ためらうことなく最後のにわとりを料理して、トルコの乗組員に食べてもらったのです。
やがて元気を取り戻した69人は、日本の軍艦で母国に送り届けられました。

それから95年経った昭和60年。
イラン・イラク戦争が続く中東でのことです。
「48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を打ち落とす」というイラクからの宣言が世界中に衝撃を与えました。
当時、イランに住んでいた在留邦人は215人。
世界各国がイランに駐留する自国民の救援機を出す中、日本からの救援機は間に合いません。
そのとき、日本人の救出に乗り出したのがトルコでした。
それはイラクが無差別攻撃してくるタイムリミットの1時間15分前。
トルコ航空の飛行機は、イランにいる215人の日本人を乗せて、成田へ飛び立ったのです。

当時の駐日トルコ大使の言葉です。
「私たちは、エルトゥールル号のご恩を忘れていません。いまの日本人が知らなくとも、トルコでは教科書に載っている有名な話で、いまの子供たちも皆、日本人に感謝の心を抱いているのです」

7/5「きいちゃんの浴衣」

明後日は七夕ですが、この日は中国の故事で女の子の裁縫の上達を祈ったことから、「浴衣の日」にも制定されています。

石川県金沢市の養護学校の生徒で、「きいちゃん」という女の子がいました。
きいちゃんは、幼い頃の高熱が原因で、手足を自由に動かすことができません。
彼女は、お姉さんがもうじき結婚式を迎えることをとても楽しみにしていたのですが、お母さんに「きいちゃんは、結婚式には出られないよ」と言われて、落ち込んでしまいます。 それは、お姉さんに肩身の狭い思いをさせたくないという、お母さんの親心だったのですが、きいちゃんには理解できません。
「私なんて、生まれてこなければよかった」と泣き出すきいちゃん。

そこで、養護学校の先生が「ねえ、きいちゃん。お姉さんのために、お祝いのプレゼントをつくろうよ」と提案し、浴衣を作ることにしました。
真っ白い布を買ってきて、二人で生地を染めるところからスタート。
初めは手が思うように動かず、何度も針を指にさしてしまいますが、きいちゃんは「お姉さんへのプレゼントだから」と縫うのをやめません。

毎日、懸命に取り組んでいるうちに少しずつ上達していき、結婚式の10日前、ついに美しい夕焼け色の浴衣ができあがりました。
その浴衣を送ると、お姉さんはとても喜び、「きいちゃんと先生を結婚式に出てほしい」と言うのです。
結婚式の日、お色直しで浴衣を着て登場したお姉さんは、みんなの前できいちゃんを紹介しました。
「妹は手足が不自由ですが、私のためにこんなに立派な浴衣を作ってくれました。きいちゃんは、私の誇りです」と言うと、会場内は大きな拍手で包まれました。

きいちゃんは養護学校を卒業した後、和裁を一生の仕事に選び、勉強しているそうです。

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