2009年9月アーカイブ

9/27「小林一茶、その親心」

夜空に浮かぶ月の輝きが一段と美しい季節を迎えています。
今年の十五夜は遅く、秋も深まる十月三日の夜空に上りますが、
仲秋の名月は古くから歌人や俳人に数多く詠まれてきました。

「名月を取ってくれろと泣く子かな」  小林一茶

この句には、月を欲しがって泣く我が子をいとおしく見つめる、一茶の温かな親心が込められています。
実は五十歳を過ぎて遅い結婚をした一茶は、四人の子供に恵まれながら、
幼いうちに次々に全ての子を失っています。なかでもわずか一歳で亡くなった愛娘の死は、
可愛さが増していた頃だけに一茶の悲しみを深いものにしました。
一茶は我が子の命の儚さを秋草に降りる露にたくして詠んでいます。

「露の世は 露の世ながら さりながら」

愛娘への諦めきれぬ思いを切々と詠んだ一茶は、その後妻とも死別。
しかし六十歳を過ぎて再婚すると、妻のお腹には新たな命が宿るのです。
ところが、喜びも束の間、一茶は我が子の顔を見ることなく六十五歳で亡くなります。
その翌年に生まれたのは女の子でした。
一茶がただひとりこの世に残した娘は、一茶の嘆きを拭い去るように、
その後無事に成長して明治という新たな時代を迎えています。

そしてなにより、一茶が詠んだ句のひとつひとつが、時を越え、人の命の儚さをこえて、
我が子の心を照らし、親子の絆を結んだことでしょう。
子を思う親心、それこそが永久(とわ)の輝きを放つ名月なのかもしれません。

9/20「打坂峠のお地蔵さん」

きょう9月20日は、明治36年に日本で初めて営業バスが走ったことを記念して、「バスの日」と制定されています。
長崎県時津町(とぎつちょう)には、いまも人々の心に残るバスの運転手がいました。
彼の名は、鬼塚道男(おにづかみちお)さん。

戦後間もない昭和22年、鬼塚さんは当時21歳で、まだ運転手になったばかりの頃のことです。
当時は、車体の後ろで木炭を焚きながら走る木炭バス。
彼の運転するバスは、国道206号線沿いの打坂(うちざか)峠を上っていました。
勾配が20度もあるこの峠は、運転手の間では地獄坂とも呼ばれていました。
およそ30人の乗客を乗せたバスは、急カーブに差しかかりますが、頂上まであと少しというところでギアシャフトが外れてしまいました。
ブレーキが効かなくなったバスは、ずるずると後ろに下がりはじめ、車内は騒然とします。
何か、石のようなものをタイヤに挟まなければ!
鬼塚さんはバスから飛び降りて後ろに回り込み、手当たり次第に石や棒を挟みますが、勢いのついたバスは止まりません。崖っぷちまで、あとわずか…だれもが最悪の事態を覚悟したそのとき、バスは静かに停まりました。
乗客にようやく安堵の声があがりますが、鬼塚さんの姿がありません。
辺りを見回すと、バスの後ろには、自らの身体を投げ出してタイヤの下敷きになった鬼塚さんが石のようにうずくまっていました。
すぐに病院に運ばれましたが、彼は間もなく息を引き取りました。
戦後の貧しい時代。
人々は供養らしい供養もしてあげることができませんでしたが、乗客たちや、そして町の人々も、鬼塚さんを決して忘れることはありませんでした。

24年後のある日、そのときの乗客の一人の証言が小さな新聞記事になったのをきっかけに、打坂峠には鬼塚さんの記念碑とお地蔵さんが建てられました。
そして彼が亡くなった命日には、打坂峠でいまも供養祭が行われています。

9/13「瞳の会」

昭和29年9月14日、映画『二十四の瞳」が全国で封切られました。

物語の舞台は、瀬戸内海に浮かぶ小豆島。
赴任してきた一人の若い女性教師と12人の児童たちとの師弟愛、心温まる交流が描かれ、
それが戦争や貧困によって引き裂かれていく様子が島の美しい自然の中に対照的に映し出されています。
監督は木下恵介。
主人公の「おなご先生」を演じたのは、当時のトップ女優・高峰秀子ですが、
もう一方の主人公たち、12人の教え子を演じたのは、子役俳優ではなく、素人の子どもたちです。
しかも、映画の中では12人の小学校低学年のときから高学年までを描くため、顔が似ている兄弟・姉妹を全国から探し出しました。
こうやって選ばれた24人の子どもたちの中には、地元・小豆島に住む一組の兄弟もいて、
カメラの前で清らかな明るい瞳を輝かせる教え子の低学年時代と高学年時代を、それぞれ一生懸命演じたのです。

この映画は当時、観客に最も涙を流させた作品といわれ、その年の映画賞を独占。
ゴールデングローブ賞外国語映画賞も受賞しました。
が、出演した24人の子どもたちの中から、これをきっかけに俳優の道に進んだ人は一人もいません。
ただ、何ヶ月にも及んだ小豆島での撮影を通じて、映画の中の物語と同じような絆で結ばれた24人は、その後、「瞳の会」という親睦会を結成しています。

それから53年後の平成19年。
名作『二十四の瞳』の古いフィルムを修復したデジタルリマスター版が完成。
その公開上映に瞳の会の面々が招待されました。
当時は小学生だった子役たちも既に50代後半から60代。
亡くなった方もいて、集まることができたのは24人のうち12人です。
その寂しさを抱えながらも、12人はスクリーンの中の懐かしい自分たちを愛おしそうにみつめていました。

9/6「世界に井戸を掘る」

千葉県には「上総(かずさ)掘り」と呼ばれる伝統的な井戸の掘り方があります。
これは、昔ながらの手掘りの方式ですが、この技術を世界に広め、飢えや干ばつに苦しむ人々を救った人物が中田正一(なかたしょういち)さんです。

きっかけは1963年、アフガニスタンの農業支援に参加したことに始まります。
お金や物資は送ることができるけれど、水だけは現地になければ意味がない、と考えた中田さんは、海外で供給できる井戸の掘り方を研究します。
例えば、エンジン付きのポンプ井戸は便利ですが、それを扱ったり修理ができる技術者がいなければ、現地では何の役にも立ちません。
その土地に合った方法で、そこにある道具で、そこにいる人々と一緒に開発する、それが昔ながらの手掘りの上総掘りだったのです。

彼は帰国後、井戸を掘る技術や農業の指導ができる人材を育てるため、国際協力会を設立しました。
ところが彼が用意したのは小さな家屋と田畑のみで、先生もいなければ、教科書もありません。
集まってきた若者たちに質問されても、「知りたいことがあれば、お百姓さんにでも聞きなさい」と答えます。
中田さんは、農業の先生は、農家の人たちや牛馬、そして自然のすべてであると考えていました。
だから、自分が教えたことを鵜呑みにするのではなく、若者自身の考えで試行錯誤しながらモノを覚え、その経験を海外で生かして欲しいと考えていたのです。

国際協力会に集まる若者は少しずつ増え、1984年に「風の学校」と改名。
この時、中田さんはすでに78歳でした。
若者たちからは「サイボーグじいちゃん」と呼ばれ親しまれていましたが、アフガニスタンで再び井戸掘りに挑戦しようとしていた矢先、脳腫瘍で倒れてしまいます。
彼は「助けることは、助けられること」という言葉を残して1991年にこの世を去りました。
中田さんの意志を受け継いだ若者は100名を超え、彼らは現在フィリピンやアフガニスタンで井戸を掘り続けています。

アーカイブ