2009年10月アーカイブ

10/25「サーナン船長が月に残したもの」

今年はアポロ11号の月面着陸から40周年にあたり、アメリカでは7月に盛大な記念式典がおこなわれました。
このときアメリカ航空宇宙局、NASA本部には7人の元宇宙飛行士が招かれ元気な姿を見せましたが、
その中の一人がアポロ17号の船長だった75歳のユージン・サーナン氏です。

アポロ計画の月面着陸は1972年12月に行われた17号のミッションが最後となりました。
このためサーナン船長は、「The Last Man on the Moon(ザ・ラストマン・オン・ザ・ムーン):月に降り立った最後の人類」になったのです。
17号は大量の月の石を持ち帰るなど貴重な成果を挙げましたが、
有名なのが「The Blue Marble(ザ・ブルー・マーブル):青い円盤」と呼ばれる地球の写真です。
広大な宇宙空間に青く輝いて浮かぶ地球の姿は、当時世界中の人々に深い感銘を与え、
環境問題への取り組みにも影響を与えたといわれています。
サーナン船長も「我々は月を探査しに行ったのだが、
実際には地球を発見することになった」という印象深い言葉を残しています。

ところで、残すといえば、サーナン船長は最後の月面着陸のミッションで、
2つの個人的なものを月に残してきました。
そのひとつはチェコスロバキアの国旗です。
実はサーナン船長の祖父母がチェコスロバキアの出身だったのです。
そしてもうひとつは月面に記した「TDC」の文字。
サーナン船長の娘、「Tracy Dawn Cernan(トレイシー・ドーン・サーナン)」のイニシャルでした。
ユージン・サーナンは、家族への愛を月に残した宇宙飛行士でもありました。

日本では間もなく十三夜を迎えます。今年は10月30日です。
夜空に浮かぶ月は、人の心の温もりでいっそう輝いて見えそうです。

10/18「母になれなかったキリン」

17年前、福岡市動物園にはミナミという雌のキリンがいました。
雄のタカオとも仲よしで、ネッキングと呼ばれる首を絡めあう仕草がとても愛嬌があり、園内でも人気者でした。
しかし、タカオが亡くなり、それから8ヵ月も経たないうちに、今度はミナミが突然亡くなってしまいます。

タカオは老衰による自然死でしたが、ミナミの死因はまったく分かりません。
そこで獣医による解剖の結果、ミナミの胃袋に、お菓子のビニール袋が詰まって死んでしまっていたことがわかりました。
さらにこのとき、ミナミのお腹には9ヵ月になるタカオの赤ちゃんがいたことも判明しました。
小さなゴミが原因で、ミナミとお腹の赤ちゃんまで失ってしまった福岡市動物園。
この悲しい出来事に園内は暗く静まり返りますが、やりきれない思いから救われたのは、一本の問い合わせでした。
それは、このニュースを見た博多区のある家族が、「かわいそうなキリンのお話を紙芝居にして、二度とこのような事故が起きないようしたい」というものでした。

出来上がった紙芝居が福岡市内の銀行のロビーで公開されると、今度はこのニュースが徳島県の小学校の先生の目に留まります。
「ぜひ、この紙芝居を子どもたちの教材に使わせてください」
紙芝居を作った家族にとっても、福岡市動物園にとっても、こんなにうれしいことはありません。
『母になれなかったミナミ』の紙芝居を観た徳島の子どもたちは、次々に感想を口にします。
「ミナミちゃんがかわいそう」「だれがゴミなんか捨てたの」「僕たちが捨てたゴミが、福岡まで飛んでいったのかもしれないよ」熱心な話し合いはクラスの気持ちをひとつにし、その思いはやがて地域のゴミ拾い活動にまで発展していきました。

紙芝居となったキリンのミナミは、いまもどこかの小学校の教室で子どもたちに、ゴミをポイ捨てする人のモラルについて、動物の立場で語りかけています。

10/11「熱血先生のラグビー」

ラグビーの日本代表として活躍し、引退後、京都府内である高校のラグビー部に赴任した先生がいます。
彼の名前は、山口良治(やまぐちよしはる)さん。

昭和49年の春、新しい出会いに胸を膨らませて校門をくぐった山口先生でしたが、
校内の荒れ具合は想像以上で、まともに授業もできない状態。
ラグビー部の部員には面と向かって「あんた、そんな強いのなら、よその学校に行け」とあしらわれる始末。
他の先生達は諦めていた様子ですが、山口先生は違いました。
「こんな状態になるまで放っておいた大人たちが悪い。必ず更生してみせる」と決心し、
生徒が悪いことをしたときは徹底的に注意していきました。
彼は自分の信念を曲げず、いつでも正面から生徒にぶつかっていったので、そのうち一目置かれるようになりました。

しかし、ラグビー部の初めての練習試合は「112対0」の記録的な大敗。
部員の誰もが叱られると思ったのですが、
山口先生がみんなに掛けた言葉は「お疲れさん。ケガはなかったか?」その時です。
部員の一人がポロポロと涙を流し、「オレ、悔しい」とつぶやきました。
すると全員がその場に泣き崩れ、「京都で一番になろうや」と新たな目標を口々に語り出したのです。
「目指せ、京都一!」??それは、先生と生徒の心が一つになった瞬間でもありました。
母親のいない部員が一人でパンを食べていたとき、
山口先生は奥さんに作ってもらった大きな特製おにぎりをあげたこともあります。
その生徒は当時、京都一のワルと呼ばれていましたが、
後に「辛いとき、あのおにぎりを思い出せば頑張ってラグビーに打ち込めた」と語っています。

弱小だったラグビー部は、やがて京都一どころか、全国優勝を果たしました。
不良だった生徒たちはその後、教師や企業の社長などになって、今も山口先生と交流を続けています。

10/4「里親デー」

昭和25年10月4日、日本に里親制度が始まったことから、この日を「里親デー」と呼んでいます。
里親とは、いろいろな事情により家庭で暮らせない子どもたちを、自分の家庭に迎え入れて養育する人。
里親制度は、児童福祉法に基づいて里親になることを希望する方に子どもの養育をお願いする制度です。

生まれたばかりで親に捨てられた過去をもつ女の子がいました。
児童養護施設で育てられ、その間に何度か里親に預けられたものの、「手がつけられない」と3日もせずに送り返されるような子でした。
でも、その子を預かった5人目の里親は、「彼女の素行の悪さは愛情に飢えていることの裏返しの表現」だと理解し、辛抱強く深い愛情で育てていきました。

そんな里親の元で、彼女は少しずつ少しずつ素直な心を育んでいくことができたのです。
20年後、彼女はその里親の元からお嫁にいきます。
自分のことをいつでも見守ってくれ、手を挙げられたことも、感情的になって怒られたことも一度だってなかった里親のお父さんお母さん。
いつも自分の幸せだけを願っていてくれた人に育てられたからこそ、いま自分は幸せな結婚ができたのだと思った瞬間、彼女にもうひとつの思いが芽生えました。

それは、「私を生んでくれて、ありがとう」
幼い自分を置き去りにして去っていった生みの親に対する恨みが、溶けるように消え、感謝の気持ちさえ起こったのです。
彼女はその後、今度は自分が里親となって行き場を失った子どもを引き取り、自分の実の子とともに深い愛情で育てています。

現在、さまざまな事情で家族と離れて暮らすことを強いられた子どもは全国におよそ3万6000人。
その中でおよそ2500人の里親が子どもたちを預かり、一緒に生活しています。

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