2009年12月アーカイブ

12/27「歌い継がれる「お正月」」

今年も残りわずかとなりました。
年の瀬の慌しさの中で、お正月を迎える華やいだ気持ちが高まるこの時期に、
多くの人に親しまれている歌が「お正月」です。
「もういくつねると、お正月 
お正月には凧あげて 
独楽をまわして 遊びましょう
 早く来い来い お正月」

お正月を待ちわびる子供達の気持ちが素直な言葉で歌われていますが、
実はこの歌は明治時代、難しい言葉で書かれていた唱歌の世界に
新風をもたらしました。作詞は東(ひがし)くめ、作曲は滝廉太郎。
そして、この歌の誕生のきっかけをつくったのは、
くめの夫、東基吉(ひがし・もときち)でした。

明治の幼児教育の黎明期に、子供達の立場に立った教育を実践し、
日本で最初の保育論「幼稚園教育法」を発表するなど活躍した基吉は、
音楽教師で作詞活動も始めていた妻に「子供の言葉で書かれた、子供達が喜んで歌う歌」を作るよう薦めます。
くめは早速、学生時代の後輩である滝廉太郎に相談。
滝も東夫妻に賛同し、明治34年、日本最初の口語体、話し言葉の唱歌集
「幼稚園唱歌」が出版されるのです。
この中に収められていたのが「お正月」でした。

2年後の明治36年、くめは5月に長男を出産。
その翌月、入れ代わるように滝廉太郎が23歳の若さで亡くなっています。
それは喜びの後の深い悲しみでした。
しかし、子供の教育と音楽に高い志を抱いた彼らが後の時代に残した歌は、
子供達に愛され歌い継がれ、今では、日本の懐かしいお正月の風景を今日に伝える貴重な歌となっています。
きっと今年も、どこかで誰かが、ふと口ずさんでいることでしょう。

12/20「東京駅初代駅長」

95年前の今日。
大正14年12月20日は、日本の鉄道の要ともいえる東京駅が開業した日です。
アムステルダム中央駅をモデルにしたといわれる赤煉瓦3階建ての東京駅は、
まさに日本の表玄関にふさわしいものでした。

その東京駅初代駅長を務めたのは、高橋善一(よしかず)さん。
蒸気機関車の油差し係から出発し、
後には当時の総理大臣から「キミさえいれば、鉄道は心配ない」と信頼を置かれたほど、
鉄道の現場に精通し、その鉄道生活の一生にひとつの過ちもなかった、といわれる人物でした。
そんな彼のあだ名は、「雷おやじ」。
じつによく怒鳴る人で、部下である駅員たちの仕事に少しでもミスがあると、罵倒するのが常でした。

そんな高橋駅長は、駅員たちに恐れられていましたが、嫌われてはいませんでした。
その理由は、決して人前では叱ることはせず、誰もいないところで叱っていたからです。
また、情に厚く、部下の面倒をよくみた人でした。

ある部下が10歳を頭に3人の子供を残して死んだときは、
その10歳の子供を強引に東京駅に就職させて、この家の経済的な危機を救いました。
当時でも10歳の少年駅員は例のないことでしたが、東京駅長としての権限で、それを実現したのです。

そのほか、東京駅で外国人に話しかけられると、
いかにも英語が判るような堂々たる調子で「イエス、イエス、オーライ」を繰り返しながら、
英語の分かる駅員が来るのを待っていたなど、微笑ましいエピソードもたくさん残した高橋善一さん。
その名は、伝説の東京駅初代駅長として、いまも鉄道マンから鉄道マンへと語り継がれています。

12/13「モンゴルに輝く稲穂」

「ぜひ日本の米づくりを教えて欲しい」
モンゴルのある地域の代表から申し入れがあったのは、青森県車力村(しゃりきむら)の村長。
遊牧の国モンゴルでは肉や乳製品以外は輸入に頼るしかなく、国民はいつも食糧難の不安を抱えていました。
青森の寒冷地で米ができるなら、同じような気候のモンゴルにもできないだろうかと、国際交流会で相談を受けたのです。

村長は悩みました。
人口7千人にも満たない小さな村に、そんな支援をする余裕があるだろうか…。
案の定、村民からは「日本では米が余っているのだから、それを送ればいい」という声があがります。
しかし村長は、輸入に頼るのではなく自分たちで主食を作ろうとするモンゴルの人たちの思いを痛感していました。
現地で人が汗を流す支援をしたい、と村民を説得します。

やがて、村からモンゴルに日本の苗とともに指導者が派遣され、現地の人たちといっしょに水田づくりに取り組みます。
しかし、1年目はモンゴルの水が冷たすぎて苗が育たず失敗。
2年目は順調に育ち始めたかと思われましたが、例年にない寒波に見舞われ、またしても失敗。
それでも3年目の支援を行おうとしたとき、村民たちは村長に「モンゴルの支援と車力村と、どちらが大事なんだ」と詰め寄ります。
村長の答えは、こうでした。
「もちろん車力村だ。でも、モンゴルでお米ができたら、私たちの村にも大きな力があったことに気づく。その自信が誇りになって、村がもっと元気になる」
さまざまなプレッシャーがかかった3年目の1993年、ついにモンゴルの水田に稲が実りました。
国中が喜びにわき、このニュースは日本でも大きく取り上げられました。

車力村とモンゴルとの交流はいまも続き、毎年モンゴルに実る稲穂は、自分たちの誇りとして村人たちの胸に輝いています。

12/6「全員で縄跳び」

長野県では、子どもたちが楽しみながらスポーツの記録を競う
「ながのスポーツスタジアム」というスポーツ大会を実施しています。
競技は全部で6種類。
その最高記録を教育委員会に提出すると、ホームページに学校とクラス名が掲載されます。

長野市松代(まつしろ)小学校の4年1組は、大きな縄を5分間で
8の字回りに何回跳べたかを競う「クラスで8の字ジャンプ」に挑戦していました。
苦手な人から先に跳んだり、後ろの人が跳ぶタイミングを知らせたり、
みんなでアイデアを出し合いながら、313回の最高記録を達成。

そんな中、いつも記録係を務めていたのが、ゆきたけクン。
彼は病気のため車いすに乗っていたので、ストップウオッチを手にみんなを見守っていたのです。
ある日、一人の児童がみんなに提案しました。「ゆっきーも、8の字ジャンプに入れないかな?」。
でも、車いすのままでは跳ぶことができません。
子どもたちは新しいルールを考え、教育委員会に手紙を書きました。
「車いすの友だちは、宙に浮いた縄をくぐることで1回と数えてもよいことにしてもらえないでしょうか」
手紙を受け取った担当者は、
「車いすのことは、考えていませんでした。こちらの方が、頭が下がる思いです」
とさっそくルール改正を検討。子どもたちの提案どおり、新しいルールが採用されました。

クラス全員が新しいルール採用のニュースに大喜び。
さっそく、ゆきたけクンを交えて練習を開始し、前回以上の335回の最高記録を打ち出したのです。
担任の先生は「クラスの団結力がより強くなった証し」と、さっそく新しい記録を教育委員会に提出しました。
記録よりも、全員そろって跳ぶことのほうがもっと大事・・・。
そんな思いで挑んだ「クラスで8の字ジャンプ」。
4年1組の記録もみんなの笑顔も、キラキラと輝いています。

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