2010年1月アーカイブ

1/31「吉丸一昌と早春賦」

明日から2月。4日には立春を迎えます。
春と言っても暦の上のことで、寒さはまだまだ厳しく、「早春賦」の歌の世界
そのままです。
「春は名のみの風の寒さや」と歌う早春賦。
今や季節の代名詞とも言うべき存在ですが、
作詞した吉丸一昌(よしまる・かずまさ)のことはあまり知られていないようです。

明治6年、現在の大分県臼杵市の下級武士の家に生まれた一昌は、
明治という武士階級にとっては厳しい時代の荒波の中で、苦学しながら、
大分中学、熊本の旧制五高、さらに東京帝国大学に学びます。
そして卒業後は、中学校教諭を経て、東京音楽学校の教授に抜擢され、
間もなく文部省唱歌の編纂(へんさん)委員に任命されています。
それは厳しくも新たな時代がもたらした可能性に満ちた人生でした。

その一方で、一昌が取り組んだのが人材の育成でした。
一昌は大学在学中に「修養塾」という私塾を開き、そこで地方出身の
苦学生の勉学から衣食住・就職まで世話をしています。
また、中学校の教諭時代には、苦学生が働きながら学べるようにと
私財を投じて日本初といわれる夜間学校を創設するなど、
自らは質素な生活を送りながら、生涯に渡って苦学生への援助を惜しまなかったといわれます。

「早春賦」は、文部省唱歌に満足しなかった一昌が大正3年に発表した
「新作唱歌・第三集」に収められています。
その2年後、一昌は43歳の若さで急逝しました。
一昌が遺した「早春賦」、それは志を抱いて懸命に生きる、
まさに早春の若者達への応援歌であったのかもしれません。

1/24「有線放送の絆」

鹿児島県鹿屋市柳谷(やなぎだに)地区。
通称「やねだん」と呼ばれるこの村は、およそ300人が暮らす小さな集落ですが、
もう10年以上前から補助金に頼らずに自分たちで村づくりの財源をつくり出していることで、
全国から注目を集めています。

そのやり方は、住民総出でサツマイモを栽培すること。
それで造った焼酎の売上げを、集落の福祉などに活用する仕組みなのです。
それにしても、村のために、大人も子どもも一丸となって共同作業に取り組む、
その強い絆はどうやって産まれたのでしょう。
その答えは、村の「有線放送」にあります。

全国各地の農村などによくある有線放送では、行政からのお知らせや行事の案内が主ですが、
「やねだん」ではそれに留まらず、結婚や出産、卒業、退職など、集落内1軒1軒のトピックを紹介。
母の日、父の日などの記念日には、故郷を離れて暮らす子どもからのメッセージを預かって、集落中に紹介するのです。
遠く横浜で暮らす娘さんからお母さんに宛てた感謝の手紙。
その結びには「やねだんの皆さん。一人暮らしの母をこれからもよろしくお願いします」と呼びかけられていました。
このときは、お母さんご本人はもちろん、村中の人たち、そして代読した高校生も胸がつまる放送だったそうです。

「やねだん」に住む皆が一人一人の名前と顔を知り、この有線放送を通じて一軒一軒の小さなドラマを知ります。
そこからお互いに感動と感謝の気持ちを共有し、「やねだん」というひとつの集落を
一人一人が支える絆を育んでいったのです。

1/17「あの日を忘れない」

きょう??1月17日は「防災とボランティアの日」です。
平成7年1月17日。
死者6434名、行方不明者3名という犠牲者を出した阪神・淡路大震災。
このニュースを知って、多くの人たちが全国からボランティアとして集まり、それぞれのやり方で被災者を支援しました。

音楽という形で、現在も被災者の支援を続けている人がいます。
シンガーソングライターの平松愛理さん。
神戸で生まれ育った彼女は、震災で多くの友人・知人を失い、変わり果てた故郷の町に衝撃を受けました。
2か月後、彼女は音楽仲間とともに東京の被災者支援コンサートのステージに立ちました。
その翌年の1月17日。彼女は病院のベッドの上にいました。
結婚して妊娠七カ月目に子宮内膜症のため異常出血。
母子ともに危ない出産になったのです。
死を覚悟しながらも、諦めていた子どもが無事に授かったとき、
彼女は、震災で亡くなった人の魂が「まだ死んでたまるか」と帰ってきて、娘が生まれたのだ、と強く感じたそうです。

それ以来彼女は、「あの日を忘れてはいけない」と、毎年毎年、1月17日に神戸で単独ライブを開催。
その収益を、震災で親を亡くした子どもたちの施設に義援金として寄付しています。
2003年の1月17日。
そのころ彼女は乳癌の手術を受け、一切の音楽活動を休んでいましたが、
それでも「何もせずに1月17日を過ごすことはできない」と、神戸に向かい、体力に見合ったライブを行いました。
「神戸は私が生まれ育った町。大好きだし、私にしかできない1月17日の過ごし方があると思う。震災を忘れてほしくない人がいる限り、神戸でライブをやりたい」と語る平松愛理さん。

「神戸ミーティング」と名づけられた阪神・淡路大震災復興支援ライブは、今夜、15年目の開催です。

1/10「誇りの鏡」

昭和20年8月、太平洋戦争が終わった直後のこと。
九州の玄関口??北九州市の門司港駅は、大陸から引き揚げてきた人々であふれていました。
昼夜をおかず列車が発着し、乗り継ぎ列車がない人は駅のホームで寝泊まりする混雑ぶり。
その人混みの中に、2?3歳の幼い子どもを連れ、大きなお腹を抱えた一人の女性がいました。

彼女は駅のホームで、突然陣痛が始まってしまいます。
異変に気付いた駅員は、すぐに彼女をリアカーに乗せ、幼い子どもを背負って病院へと向かいました。
ところが開いている病院がありません。
駅員は自分の家に連れて行き、自宅で出産させることを決意します。
「心配いりませんよ、もう少しがんばってくださいね」
親戚も知り合いもいない門司港で、駅員に励まされた彼女はどんなに心強かったことでしょう。

翌朝、駅員の自宅で元気な男の子が生まれました。
赤ちゃんは、門司港での恩を忘れないようにと、左の門司と書いて「左門司(さもんじ)」と名付けられました。
そして2週間後、遅れて大陸から到着した夫とともに、一家は関東の茨城へと帰っていきました。

それから26年後の昭和46年、左門司さんが結婚することになりました。
彼が真っ先に招待したいと考えたのは、門司港駅の駅員さん。
左門司さんは誕生日の度に、自分の命の恩人の話を母親から聞かされていたのです。
彼らは、26年ぶりの再会を心から喜び合いました。
そして同じ年に、両親が再び門司港駅を訪れ、26年前のお礼にと、大きな楕円形の鏡を寄贈しました。
駅の事務室に架けられたその鏡は「誇りの鏡」と名付けられ、
いまでも駅員はこの鏡の前で身だしなみを整えてから、駅に出ることになっています。

1/3「響け!九州のオーケストラ」

西日本にはオーケストラと呼べるものがない。みんなで交響楽団をつくろう!
昭和28年、九州交響楽団の発足を呼び掛けたのは、
アマチュアオーケストラの指揮をしていた若者・石丸寛(いしまるひろし)さんです。

集まったのは、軍楽隊の経験がある九州大学のOBやテレビ局の放送管弦楽団員たち。
石丸さんは指揮者としてメンバーを率いることになりますが、
自分より十歳も二十歳も上の先輩を相手に、タクトが上手く振れません。
指揮者というのは、人間性が未熟なうちは誰もついてきてくれない。
そう思った石丸さんは、指揮者を後任に譲り、東京へと旅立ちます。
その東京には、クラシック界の巨匠と呼ばれたカラヤンが来日していました。
石丸さんは、カラヤンの直接指導を受け、その後はテレビで音楽番組を企画したり、
全国のアマチュア楽団を集めた「5千人の第九」を発案するなど、幅広い活躍をしていきました。

そんな石丸さんが再び九州交響楽団に帰ってきたのは平成7年。42年の月日が流れていました。
そのとき、彼には昔とは違う、はっきりとした指針がありました。
横のつながりが希薄な時代だからこそ、楽団が同じ目標に向かうことで、
一つのファミリーのような関係を築こう。私はそのためにタクトを振るのだと。
石丸さんの指揮は、演奏者たちにもすぐに伝わりました。
「先生のおかげで、こんなに楽しく演奏できるのだから、本番では先生を幸せな気持ちにするつもりで演奏しよう」という団員たちの想いが相乗効果を生むのです。

石丸さんは晩年、自らのがんを告知し、抗がん剤治療は受けずに最後までタクトを振り続けました。
それは、自分の経験をすべて後継者に伝えたいという思いだったのかもしれません。
平成10年に他界された石丸さん。
その意思を受け継いで、今月も九州各地で、九州交響楽団のニューイヤーコンサートが開催されます。

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