2010年3月アーカイブ

3/28「又兵衛桜?その生き様こそ桜花」

春を告げる桜前線が今年も日本列島を駆け抜けていますが、
これから見頃を迎えるのが、奈良県宇陀(うだ)市の樹齢三百年といわれる「又兵衛桜(またべえざくら)」です。
この又兵衛とは豪傑の武将として知られた後藤又兵衛(ごとう・またべえ)の伝説に由来しています。

福岡藩初代藩主、黒田長政に仕えた又兵衛は、
関が原の戦いなど数々の戦場で目覚しい活躍を見せ、その名を天下に知らしめました。
ところが長政との間に深い確執が生じたため、福岡藩を出て浪々の身となるのです。

もちろん名だたる大名達が家臣に迎えようとしますが、
これに対し長政がとったのが、奉公構(ほうこうかまい)という処分でした。
これは他家への奉公を差し止めるという、武士にとっては切腹に次ぐ重罪です。

そんな中、又兵衛を迎え入れたのが徳川方との対決を目前にした豊臣秀頼でした。
これを知った徳川家康からも、なんと大名として迎えるという誘いの声がかかります。
又兵衛は感激しつつも、秀頼の恩に報いる道を選び、大阪の陣を戦い抜いて自害して果てるのです。

そして伝説は生まれます。
実は、又兵衛は密かに逃れて生き延び、再興のときを待ちながら余生を送ったというのです。
後藤家の敷地跡にある見事な枝垂桜(しだれざくら)は、いつしか又兵衛桜と呼ばれるようになりました。

長政を恨まず、しかし武士の意地を貫いた又兵衛。
その潔い生き様を、今年も桜の花が花見の人々の心に刻みます。

3/21「ワイン作りの父」

マスカット・ベーリーA、ブラッククイーン、ローズ・シオター・・・・。
これらはすべて、ワイン作りに欠かせない葡萄の名前です。
開発したのは、新潟県の川上善兵衛(かわかみぜんべい)さん。
明治時代の幕開けとともに日本の食卓にワインを広めようと、葡萄の栽培に生涯を捧げた人物です。

彼が目指したのは、ワイン作りによって、農民の暮らしが少しでも安定するためのシステムです。
皆で収穫した葡萄でワインを作り、その利益を皆で分配する経営スタイルは、
当時の農民にとっては夢のような話でした。

善兵衛自ら率先して葡萄栽培の手本を見せる姿に、農民からは、厚い信頼が寄せられていました。
それゆえに善兵衛は、より美味しいぶどうを育てようと、10年の歳月をかけて品種改良に取り組みます。
その記録をまとめた「葡萄全書」は当時の農業関係者から大変重宝され、後に「農学賞」を受賞します。

ところが、苦労して産み出した品種を、彼は次々と無償でほかの葡萄農家に分け与えました。
さらに、自分のワイナリーが経営難に陥っても誰一人解雇しなかったことから、
善兵衛はついに破産し、ワイナリーを手放すことになりました。

今やすっかり日本に定着したワイン。
そのおよそ6割は、善兵衛が品種改良した葡萄から作られています。
しかし、彼のワイナリーはなく、彼の名を知る人もいません。
それでも晩年、善兵衛は「財産は失くしたが、私が作った葡萄の新しい品種は日本の各地に広まっている。
それがある限り、私の努力は報われている」と語っています。

3/14「夢のかけら」

昭和45年の今日??3月14日、大阪で日本万国博覧会が開幕しました。
「人類の進歩と調和」をテーマとする大阪万博は、予想を超える延べ6421万人の入場者を数え、
この記録はいまなお破られていません。

きらびやかなユニフォームを着て来場者に応対するコンパニオンは、パビリオンの華です。
ノリコさんはこのとき二十歳で、ある企業のパビリオンでコンパニオンをしていました。
万博が開幕すると、連日、予想を超えた人また人の波。
ノリコさんは朝から晩まで休む間もなく仕事に追われました。
空き時間に、私も万博を楽しみたい。
とくにアメリカ館で公開されているアポロ宇宙船が持ち帰った「月の石」を見てみたい??そう考えていた彼女ですが、
結局、一度もその機会はなかったのです。

ある日、彼女は会場内に落ちている財布を拾い、本部に届けたところ、
翌日、その落とし主がノリコさんを訪ねてきました。
アメリカからの観光客だという男性は、
「この万博で一番感動したのは、あなたのような正直で誠実な人がいる日本という国」
とお礼を言い、謝礼を受け取ってほしいと申し出ます。
それを頑なに断る彼女に、「せめて記念に」と男性が取り出したのは、小さな小さなガラスのカプセル。
中には黒ずんだ石の破片みたいなものが入っています。
いぶかしげな顔をするノリコさんに、男性はいたずらっぽくウィンクしながらこう言いました。
「これは、じつは月の石なのです」

あれから40年。
60歳を迎えたノリコさんは、そのカプセルの中身が本当に月の石なのか、いまもわかりません。
でもこれは、無我夢中で仕事をして万博を楽しめなかった自分に、
神様がくれた夢のかけらなのだ、と思っているそうです。

3/7「芋代官の決意」

江戸時代、現在の島根県で代官を務めていた井戸平左衛門(いどへいざえもん)は、
貧しい農民から厳しく年貢を取り立てる幕府に怒りを感じていました。

「農民が苦しまないように政治を行うのが代官のつとめではないか」
農民たちは、せっかく採れたお米もすべて幕府に納めないといけないので、
自分たちの食糧がなく、飢え死にする者が後を絶たなかったのです。
平左衛門は、サツマイモを植えている地方では飢え死にする者が少ないという話を聞き、
種芋を取り寄せますが、なかなかうまく育ちません。
「このままでは、また農民が飢え死にしてしまう」

平左衛門は、商人たちに頭を下げて寄付を募り、農民のためにお米を購入しておかゆの炊き出しを行いました。
しかし、次の年、歴史に残る享保の大飢饉が農民たちを襲います。
平左衛門は私財を投げ打って再びおかゆの炊き出しを行いますが、とても間に合うはずがありません。

飢えていく農民たちを救う道は、ただひとつ。それは、幕府に納める年貢米を彼らに分け与えることでした。
平左衛門は幕府から制裁を受けることを覚悟で米蔵を開放。
最後に「私は役人として許されない罪をおかした。だが悔いはない」と言い残し、自害しました。
農民たちは悲しみに暮れましたが、その年の秋、この村の畑で初めてサツマイモが実りました。
それはやがてあちこちの畑に広がり、農民にとって貴重な食糧となっていきます。

まるで平左衛門の命を受け継いだかのように育っていったサツマイモ。
農民たちは親しみを込めて、亡き平左衛門のことを「芋代官さま」と呼び、
その功績をいつまでも語り継いでいきました。

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