2011年5月アーカイブ

5/29「シーボルトの子供達」

間もなく六月、紫陽花の季節の到来です。
シーボルトと日本人妻、お滝さんの思い出を語り継ぐ紫陽花。
二人の間にはイネという娘が生まれ、後に日本人女性で初の西洋医学を学び、
産婦人科医になったことで知られますが、実はシーボルトには、日本で活躍した二人の息子がいました。

日本を追放処分となったシーボルトは48歳のときにオランダで結婚しています。
お滝やイネと別れて17年後の遅い結婚でした。
そして、日本が開国し追放令が解除されると、長男アレクサンダーを伴って来日し、
30年ぶりにお滝とイネに再会するのです。
このアレクサンダーが、その後、外務大臣・井上馨(いのうえ・かおる)の秘書を務めるなど
明治政府の外交に携わり40年余りに渡って活躍。
また、父親の影響を受けて日本に憧れていた次男ハインリッヒも来日すると、
兄とともに外交に活躍する一方、遺跡の発掘などに取り組み、
日本に初めて「考古学」を根付かせ発展させたといわれます。

イネは、この二人の弟の支援を受けて東京で開業、
宮内省御用掛(くないしょう・ごようがかり)になるなど産科医として活躍しました。

次男ハインリッヒは日本人女性、岩本はなと結婚しますが、長男誕生の際にはイネが赤ん坊をとりあげています。

父親に導かれて、それぞれ活躍の道を見出した子供達。
その子供達が日本で結んだ絆こそ、父親の大いなる愛が願ったものかもしれません。

5/22「駅は人生の玄関口」

鹿児島県霧島の山中にぽつんと建つ嘉例川(かれいがわ)駅の開業は明治36年。
県内で最も古い駅舎で、そのノスタルジックな佇まいにひかれて
休日には見学に訪れる人も多い観光スポットとなっています。

この駅は27年前から無人駅となっていますが、なぜか駅長がいます。
レトロな黒い詰襟の制服を着てホームに立ち、列車を迎える福本平(ひとし)さん。
じつは平成16年に任命された名誉駅長なのです。
出勤は土曜・日曜。
駅を訪れる観光客一人ひとりに笑顔で「おじゃったもんせ」と鹿児島弁で声を掛け、駅の歴史を語り、案内します。
非番のときでも線路端の草刈。これらの業務を手弁当でしているのです。

地元出身の福本さんは二十歳のとき、この駅から出征兵士として見送りを受けて戦地に赴き、
戦争が終わると、再びこの駅に復員してきました。
戦後は36年間鉄道マンとして働き、嘉例川駅にも10年間勤めた人です。
この嘉例川駅が百周年を迎えた平成14年。
その祝賀会を地元に呼びかけたのが福本さんです。
ローカル線の小さな無人駅での祝賀会は誰にも相手にされませんでした。
それでも、「百年間も地域の皆がお世話になった駅にお礼をしよう」と説得して回った結果、
次第に賛同者が増え、祝賀会当日は駅前に1300人もの人が集まりました。
そして、このことがJR九州を動かし、観光列車が嘉例川駅で停車するようにダイヤが組まれ、
多くの観光客が訪れるようになったのです。

「この駅は私の人生の玄関口。だから恩返ししているだけ」
と名誉駅長をしてきた福本さんは、去年の暮れに85歳で退任。
嘉例川駅とともに人生を歩んだ福本さんの思いは、いまも地域の方々と、後任の名誉駅長に引き継がれています。

5/15「日本女子野球」

60年前の日本に、女子プロ野球があったことをご存知ですか。
最初のチームが産まれたのは、昭和23年。
東京のダンスホールのダンサーたちと横浜の女子高校生らで結成された東京ブルーバードです。
彼女たちは地方遠征を行い、地元のアマチュア男性チームと試合を行いながら、その入場料を糧にしていました。

その後、各地に次々と女子プロチームが誕生。
最盛期には全国に25ものチームがしのぎを削り、多くのスタープレイヤーが育ち、人気を集めていきました。

とはいえ、その経営基盤は脆弱で、資金が尽きて遠征先で泊まった旅館から夜逃げするチームもありました。
また、当時の女子野球に強く期待されていたのは見せ物的な要素で、観客から卑猥な野次を浴びせられることもあり、健全なプロスポーツとはほど遠い状況でした。
それでも、選手たち自身は一途に野球をしたい思いで溢れ、理不尽なことを我慢して、ひたすら野球に打ち込みました。
経営がうまくいかず親会社が逃げ出したチームでは、「おカネが入ってこないなら自分たちで稼ごう」と、
全員で近くの畑で獲れた野菜を売ったりしながらチームを存続させていきます。
皆、野球が大好きで、チームが大好き??それが当時の女子プロ野球選手だったのです。

女子プロ野球はその後、昭和27年から社会人野球に移行し、健全なスポーツをめざしていきました。

戦後間もない頃にわずか4年間だけ存在した女子プロ野球。
それは時代のあだ花だったのかもしれませんが、その選手たちは純粋に自分たちの野球を愛し、野球を楽しんでいたのです。

5/8「赤十字の父」

5月8日は「万国赤十字デー」。
これは赤十字の父と呼ばれるアンリ・デュナンの誕生日を記念して定められました。

1828年にスイスで生まれたデュナンは、若くして土地開発や金融の会社を興した実業家でした。
31歳のとき、事業のために北イタリアに向かいます。
そこで遭遇したのがイタリア・フランス連合軍とオーストリア軍との戦争。
何万人もの兵士が死亡し、傷つき倒れ、放置されていたのです。
初めて戦場を見た彼は「同じ人間どうしがなぜ傷つけあうのか」と激しいショックを受け、
無我夢中で町の人々といっしょに、敵・味方の区別なく傷ついた兵士を助けました。

旅を終えスイスに帰った彼は、自ら戦争の悲惨な状況を語る本を自費出版し、
国際的な救護団体の設置を訴えました。
そして、それを実現させるために4人のスイス人の仲間とともに「五人委員会」を結成。
ヨーロッパ16か国の代表者を招いて国際会議を開き、戦場では敵・味方の区別なく手当すること、
また、手当を行う人を攻撃してはいけないというジュネーブ条約を作りました。
そして、その救護組織として国際赤十字が誕生したのです。

しかし、デュナンはその後、自分の会社の経営に失敗して莫大な借金を抱えてしまい、
追われるように人々の前から姿を消してしまいます。
彼は晩年、小さな町の老人ホームでひっそりと暮らしていました。
そのことを偶然知った新聞記者が記事にしたことから、
デュナンの功績が再評価され、1901年、最初のノーベル平和賞が彼に贈られました。

彼はその賞金を全額赤十字に寄付し、
自分は目立たないように葬儀をしてほしいと遺言を残して、1910年、静かに82年の生涯を閉じています。

5/1「増えた乗客」

飛行機に乗っている乗客の数が、飛んでいる間に1人増えている!というミステリーのような事件がありました。

2006年1月5日、フランスのリヨンから飛び立ったオーストラル航空の旅客機が、
目的地のインド洋にある小島リユニオン島に向かっているときのこと。
一人の女性が長い時間トイレに入ったまま出てきません。
不審に思った客室乗務員がトイレに入っている彼女に声をかけたところ、
どうやらこの女性が産気づいていることが分かりました。
じつは彼女は実家のあるインド洋のマヨッテ島に、出産のため向かう途中だったのです。

「どなたかお医者さまは乗っていらっしゃいませんか」
機内にアナウンスが流れると、すぐさま一人のドクターが名乗り出ました。
また、この飛行機にはミールサービスのために大量のお湯も積み込まれていたので、
それを使いながらドクターが出産の手助けをし、無事に産まれた赤ん坊は客室乗務員が毛布にくるんで保護しました。

ところで、この航空会社では妊娠7か月を超えた女性の搭乗を禁止しています。
このことが公になれば、出産した女性は咎められることになるのです。
客室乗務員から報告を受けたパイロットはちょっと考えて、この出産をなかったことにしようと判断しました。
しかし、他の搭乗客は何が起こったのか心配しています。
何か説明をしなければなりません。

そこで、機長がこんな機内アナウンスをしたのです。
「ご搭乗の皆さまにお知らせします。ただいま乗客がお一人増えました」

「出産」という言葉を使わずに、機長から贈られた祝福でした。

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