2011年4月アーカイブ

4/24「国を思う信念、母に捧げた命」

今から150年余り前の安政2年、江戸を中心とする関東にマグニチュード7とも伝えられる大地震が発生しました。
大都市江戸の被害は甚大で、死者は4,000人を超え、倒壊家屋は1万戸に及んだといわれます。
このときに惜しくも亡くなったのが水戸藩の藩士、藤田東湖(ふじた・とうこ)でした。

幕末の水戸藩といえば尊王攘夷(そんのうじょうい)でしられますが、
その要となったのが東湖で、水戸藩主、徳川斉昭(とくがわ・なりあき)の側近として活躍。
ペリーが浦賀に来航して、藩主斉昭が幕府の海防参与(かいぼうさんよ)に任じられると、
東湖も幕府の海防政策に携わり、激動する日本の政治や外交に力を尽くしました。
全国の尊王攘夷派の藩士や志士達から絶大な信望を集め、
西郷隆盛など多くの志に燃える若者が東湖を訪ね、その薫陶(くんとう)を受けたといわれます。

そんな東湖を大地震が襲いました。
そのとき、東湖は江戸の水戸藩邸内の屋敷から無事に庭に逃れるのですが、
母親が火鉢の火を心配して戻ったため、あとを追いかけます。
そこに大きな梁が落下してきたのです。
母をかばい、梁を全身で受け止めた東湖は残る力を振り絞って母を逃すと、ついに力尽きて圧死したのです。
享年50歳。
国を思う信念の人は、その命を惜しまず母に捧げました。

志半ばで亡くなった東湖。
しかし、熱き志は多くの志士達に受け継がれ、新たな時代を拓く礎となったのです。

4/17「砂漠を緑に」

モンゴルの広大な沙漠を緑に変えようと、遠大な理想を掲げて行動を起こした日本人がいます。
遠山正瑛(せいえい)さん。
鳥取砂丘での野菜づくりに初めて成功した農学博士です。

彼が鳥取大学の教授を定年退官したのは、66歳。
この歳になって彼は、「世界の食料危機を解決するためには砂漠を畑にすることだ」という持論を実践するために、
中国へ渡って砂漠に実験農場を開きます。

1991年には日本砂漠緑化実践協会を設立。
集まってくれたボランティアの若者たちを連れてモンゴルの砂漠に赴き、本格的に砂漠の緑化を始めたのです。
このとき85歳。
遠山さんは日除け帽子をかぶり、長靴を履き、作業服を着て道具袋を背負い、毎日10時間近くも作業を続けました。
暑い夏の気温は40度に達し、冬はなんと零下20度になる砂漠で、
彼は来る日も来る日もポプラの苗を1本1本植えていったのです。
普通の人ですら大変なのに、高齢の遠山さんにとってどんなに苛酷だったことでしょう。

しかし、「やればできる。やらなければできない」という彼の信念と情熱に全国から寄付金が寄せられ、支援の輪が拡大。11年間でおよそ7000人のボランティアの手によって300万本以上のポプラが砂漠に植林されたのです。

その300万本目のポプラを89歳になって植えた遠山さん。
「なにしろ広大な砂漠相手だから、まだ10年や20年は頑張らなくては」と心意気を語りました。
今、かつての砂漠には根付いて成長したポプラの森が広がり、畑が作られ、農業が始まっています。

そして遠山さんは2004年に97歳で亡くなりましたが、
彼の遺志を受け継いだ日本砂漠緑化実践協会は、いまも砂漠を緑に変える植林を続けています。

4/10「母子飛行」

明治43年、日本の空に初めて飛行機が飛びましたが、
その後、大正10年には日本初の民間パイロットが誕生し、航空免許が発行されました。
その人は、後藤勇吉。宮崎県の延岡出身で、根っからの飛行機好きです。

彼はパイロットとして旅客飛行や郵便飛行、農産物輸送などを初めて行い、
また飛行大会で優勝したり、高度5000mを突破したり、日本一周飛行に挑戦したりと、
さまざまな記録を打ち立てています。
ところが後年、彼自身が一番思い出に残る飛行として挙げたのは、
そんな偉業を成し遂げた飛行ではなく、故郷・延岡への訪問飛行です。

当時の九州の人たちにとって飛行機はまだまだ珍しい代物。
1万人の群衆が見守る中、後藤は海岸から自慢の飛行機を操って舞い上がり、
宙返りなどを披露して拍手喝采を浴びました。
その後には、次に見物していた友人知人の誰かを飛行機に乗せてあげようと、希望者を募りました。
しかし、皆怖がって、だれも乗ろうとはしません。
そこで勇吉は父親を誘いますが、「ちょっと体調が悪くて」と尻込みする始末。

そのとき「私が乗せてもらおう」と申し出た人がいます。
勇吉の母親・チカです。
「勇ちゃんの操縦なら安心じゃもんね」と彼女は着物の裾をたくし上げて、勇吉の後ろの座席に乗り込んだのです。
二人を乗せた飛行機は空に舞い上がり、しばらく旋回して下りてきました。
チカは相変わらずニコニコと満足げな顔。
「飛行機が思ったよりよっぽど安全な乗り物だと分かりましたよ」と群衆に向かって言ったそうです。

我が子ゆえに安心して身を委ねてくれた母の気持ち。
勇吉にとってこの飛行は、忘れられない思い出だったのです。

4/3「モーゼスおばあちゃん」

60年ほど昔のアメリカに「モーゼスおばあちゃん」と呼ばれていた画家がいました。

本名アンナ・モーゼス。
貧しい農家で生まれ、12歳から住み込みで働き、27歳で結婚、バージニアで農園を借りて暮らします。
その間、10人の子どもを産み、農作業と育児に明け暮れながら歳を重ねていきました。
やがて66歳のときに夫が死去。
70歳になるとリウマチで手先が不自由になっていきました。
そこでリハビリと気晴らしを兼ね、彼女は75歳にして生まれて初めて油絵を描き始めたのです。

その絵は、農村の生活や行事、自然の移り変わりなど、
彼女の若かりし時代の身近な風景を描いたフォークアート。
高度なテクニックもなく、むしろ稚拙な筆捌きですが、
森の鮮やかな緑や雪景色の抜けるような白さ、生き生きと描かれた人々や動物の姿には、
素朴で暖かい叙情があふれています。

5年後。
そんな彼女の絵がニューヨークで脚光を浴び、やがて全米の注目を集め、
その作品世界そのままの人柄から「グランマ・モーゼス」つまり「モーゼスおばあちゃん」と呼び親しまれていきました。
売れっ子画家になっても素朴でつつましい農村暮らしを続け、
アトリエさえ持つこともなかったモーゼスおばあちゃん。
1961年に101歳で息を引き取るまで、彼女はおよそ1600点の作品を描きました。

亡くなる直前に描いた遺作のタイトルは「虹」。
そこには笑顔あふれる幸せいっぱいの人々の様子が描かれています。
年老いてから何かを始めてもけっして遅くはない??彼女の人生はそのことを、私たちに示してくれているのです。

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