2011年3月アーカイブ

3/27「海を渡った日本の桜」

アメリカの首都、ワシントンのポトマック河畔の桜並木は、
日本の桜を愛する多くの人々が懸け橋となって誕生したことで知られますが、
桜が海を渡って花を咲かせるまでには長い道のりがありました。

明治42年、タフト大統領のヘレン夫人による日本の桜の植樹計画を知った尾崎東京市長は、
2000本の桜の苗木を贈ります。
ところが、船でアメリカに到着した桜は害虫が付いていたため、すべて焼却処分となるのです。
元気な桜を届けるために、日本の人々の懸命の努力が始まります。

接ぎ木で増やす桜は、土台となる「台木(だいぎ)」と、それに接ぎ木する「接ぎ穂(つぎほ)」が必要ですが、
東京市は健康な台木を求め、兵庫県の植木の産地、
東野村(ひがしのむら)の久保武兵衛(くぼ・たけべえ)に1万5000本もの台木作りを依頼します。
武兵衛は光栄なことだと喜んで引き受け、村を挙げて取り組むのです。
村人達は手分けして1本1本丹精込めて台木を育てあげ、
村から送り出すときは「万歳、万歳」と声を挙げて見送ったといわれます。

その後、園芸試験場で接ぎ穂が接ぎ木され、苗木が再び海を渡ったのは3年後のことでした。
当時、船の長旅にも耐える健全な苗木を大量に育成するのは至難の業でしたが、
見事な苗木はアメリカの検査官を驚かせました。
そして、明治45年3月27日大統領夫人によって植樹式が行われたのです。

人々の思いが花を咲かせた桜並木は来年の春、100周年を迎えます。

3/20「ワシントンに咲くサクラ」

日本にサクラの季節が訪れるころ、アメリカの首都・ワシントンでも盛大にサクラ祭りが開かれます。
実は、ホワイトハウスの近く、ポトマック河畔には、日本から持ち込まれたサクラ並木があるのです。
この日米のサクラの架け橋となったのは、エリザ・シドモアという一人のアメリカ人女性です。

新聞社の特派員として28歳の彼女が初めて日本の土を踏んだのは明治17年。
以降、20年間にわたって人力車で日本各地を駆け巡り、紀行文を書きました。
当時、多くの欧米人が日本に来ていますが、
その大半は、日本の文化より西欧文化のほうが優れているという意識をもっていました。

ところがシドモアはむしろ、日本こそ欧米が学ぶべき理想の国だと考えるほど、日本と日本人を愛しました。
日本の自然の美しさ、料理の美味しさ、店で受けたサービスの細やかさ、
四季折々のお祭りのすばらしさ等々、彼女が出版した『シドモア日本紀行』には、
明治時代の日本の風俗や人々の姿がいきいきと描かれています。

とりわけ彼女が心惹かれたのが、サクラ。サクラの花の美しさもさることながら、
満開のサクラの下で花見を楽しむ日本人の奥ゆかしい陽気さや親愛の情に感激し、
彼女はアメリカ人にもこの楽しさを教えたいと思いました。
彼女の熱い想いはやがて日米の政府関係者を動かし、
明治42年、友好のサクラの苗木2000本が日本からアメリカへ送られたのです。

それから100年。エリザ・シドモアはいま、横浜の外国人墓地で眠っています。
そして、その墓のそばには、ポトマック河畔から日本に里帰りした
4本のサクラの木が植えられ、毎年花を咲かせています。

3/13「宇宙ロケットの父」

世界で初めて宇宙ロケットが打ち上げられたのは、1926年3月16日です。
火薬を詰め込んだロケット花火は13世紀からありましたが、
それが宇宙へ飛んでいくなどとは、誰も想像していませんでした。

少年のころからSF小説を愛読し、いずれは月に行きたいという夢を抱いていたのは、
アメリカの無名の大学教授・ロバート・ゴダード。
彼は研究の末、液体燃料による3段式のロケットを開発。
マサチューセッツのおばさんの農場で打ち上げ実験に成功したのです。

ただ、その飛行時間2.5秒。
飛行距離56m……集まった新聞記者たちには、おもちゃの花火が火を噴いただけにしか見えず、
嘲笑しながら帰っていきました。
そして翌日のニューヨークタイムズには、
「空気も重力も無い宇宙空間でロケットが飛ぶことはありえない。
ゴダード博士は高校生でも知っているはずの常識さえも持ち合わせていない」と酷評する社説が掲載されたのです。
世間から嘲られ奇人変人扱いされたゴダード。
それにもめげずに打ち上げ実験を続けると、パトカーや消防車が駆けつけ、
「近所迷惑なことはするな」と警察に連行される始末でした。

そんな中でただ一人、宇宙への夢を追うゴダードに共感した人物がいました。
それは、世界初の大西洋横断飛行に成功したリンドバーグ大佐。
彼の励ましと資金援助によって、ゴダードはその後も研究と実験を続けることができ、
1945年に亡くなるまで、宇宙ロケットの実用化に大きな業績を残しました。

アポロ11号が月に着陸したのは1969年。
その日、ニューヨークタイムズは、かつてゴダードを非難したことを49年ぶりに謝る社説を発表。
そこには生前のゴダードのこんな名言も紹介されています。
「昨日の夢は、きょうの希望であり、明日の現実である」

3/6 「世代をつなぐ民話」

長崎県東彼杵町(ひがしそのぎちょう)に、「音琴(ねごと)」という地名があります。
音楽の「音」に楽器の「琴」という字を書きますが、
この地名は昔、天女が舞い降りて琴を弾いたという民話に由来します。

琴の音色が大きく聞こえたところは「大音琴(おおねごと)」、
小さく聞こえたところは「小音琴(こねごと)」と呼ばれています。
こうした民話を子どもたちに伝えたいと立ち上がったのは、
読み語りボランティア「クジラっ子」の代表・岸川となみさんです。

岸川さんは、ただ民話を読み聞かせるのではなく、2メートルもあるカーテンに背景を描いたり、
BGMや効果音をつけたりして寸劇に仕上げます。
はじめは近所だけで披露していたのですが、8年前から町の小中学校全6校の恒例行事になっています。
また「うちの地区の話はないの?」と民話に興味を持つ子どもたちの好奇心は、
岸川さんたちが次の作品を作る意欲につながり、歴史民俗資料館の書物を調べたり、
歴史に詳しい先生に尋ねたりしながら、毎年一つずつ新しい作品を作り上げます。

岸川さんが驚いたのは、子どもではなくお年寄りの施設を慰問したとき。
60代から70代の方の中には地域に伝わる民話を知らない人が意外と多いのです。
「私たちは戦争のさなかに育ったから、民話を聞くゆとりがなかったのよ」とわけを話すお年寄りたち。
涙を流しながら当時を振り返る方もいるそうです。
そのことを知った岸川さんは、
「民話はふるさとへの想いをつなぐもの。ぜひいまからでも娘さんやお孫さんに語り継いでほしい」と話します。

次の作品は、大村藩と佐賀藩の合戦の舞台になった場所に伝わるお話。
岸川さんたちの手によって、また一つ、町の宝物が生まれようとしています。

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