2011年2月アーカイブ

2/27「華の結実、石井筆子」

明治時代に「鹿鳴館の華」と謳われた石井筆子(ふでこ)。
東京女学校やアメリカ人の英語塾に学ぶなど先進的な教育を受けた筆子は、
皇后の推薦を受け19歳でヨーロッパに留学。
帰国後は、エリート官吏(かんり)と結婚する一方、華族女学校の教師となり、
鹿鳴館では、その美しさと聡明さで注目されます。

そして筆子は3人の娘の母となるのです。
それが試練とともに使命の道を歩む始まりでした。
長女に知的障害があったのです。
しかも病弱だった夫は35歳の若さで先立ち、次女も三女も亡くなります。
相次ぐ悲しみの中で出会ったのが石井亮一でした。
日本最初の知的障害者の福祉施設、滝乃川学園に娘を預けていた筆子は、
学園の創立者で園長でもあった石井の高潔な人柄と志に感銘を受け、周囲の反対を押し切って再婚。
子供達と寝起きを共にする質素な生活を始めます。

しかし、富国強兵の世の中で知的障害への無理解と偏見が渦巻く中、
深刻な資金難、学園の火災と園児の死亡など、次々に試練が襲いかかり、学園に閉鎖の危機が迫ります。
ところが、火災が新聞で報じられると全国から励ましや義援金が次々に届いたのです。
多くの人々の善意で学園は再出発を果たします。

その後、筆子は夫、亮一が亡くなると志を継いで学園長となり、
太平洋戦争の最中82歳で亡くなるまで知的障害児の保護と教育に生涯を捧げ、学園を今日に残しました。
様々な試練に背を向けず立ち向かい、鹿鳴館の「華」は華に終わることなく、逞しく大きな実を結んだのです。

2/20「足止めされた列車」

「えびの地震」は、昭和43年2月21日に宮崎と鹿児島の県境にあるえびの高原で起こったマグニチュード6.1の地震。
九州のほぼ全域が揺れ、えびの市の山間の村・真幸(まさき)地区では最大震度6が観測されました。

この小さな村には、熊本と鹿児島を結ぶ鉄道・肥薩線の真幸駅がありますが、
熊本から険しい山を越えてやって来た列車が、このえびの地震のために立ち往生し、
真幸駅に丸一日足止めされることになりました。
列車が動かないとなると、乗客たちのために食料を配給しなければなりません。
しかし、街中ならともかく、山の中の小さな村。
麓の町から食料を調達しようにも、折からの大雪に見舞われた山道は埋もれ、クルマの行き来もできません。
駅の近くに住む人たちが、このことを知り、すぐさま手分けして炊き出しを始めました。
地震で大きな被害を受けている真幸の人たちが、駅に足止めされた列車の乗客たちのために、
真心の食べ物を届けてくれたのです。

さらに、乗客の一人の女性が突然、産気づきました。
このときも、駅前の家から戸板を外してそれを借り、
大人の膝まで積もった雪の中、女性を乗せた戸板を皆で運び込み、
近所の人たちの慈愛の支えで無事出産をすることができました。

えびの地震に大揺れした山間の村の小さなエピソード・・・。
このときの列車の運転士さんが、後にその思い出をこう語っています。
「今なら美談として新聞やテレビの話題になるところだが、当時はこの話は全く知られてないはず。
震度6の地震の直後でも、困ったときはお互い様と、みんなが助け合うのが当たり前だったからね」

それから43年後の現在。
真幸駅には観光列車で大勢の人が訪れますが、今は無人駅で、駅前の集落もありません・・・。

2/13「西郷と愛加那」

奄美大島の北部、龍郷町(たつごうちょう)には、西郷隆盛がかつて暮らしていた住居がいまも残されています。

西郷は幕末の一時期、薩摩から奄美大島に流されていました。
国元から遠く離れた絶海の孤島ですが、島の暮らしに徐々に溶け込んだ西郷は、
がて愛加那(あいかな)という娘と出会い、お互い心惹かれていきます。
でも、西郷は、いずれは許されて薩摩に帰る身。
「そんな自分がこの島で妻を娶ることはできない」と思っていました。
しかし、それでも西郷を世話する周囲の者たちの強いすすめに、二人はいっしょになります。
西郷が33歳、愛加那は23歳でした。

二人はとても仲睦まじく、寄り合いの席などで、
西郷が人目もはばからず愛加那のそばに寄り添うので、村人たちは目のやり場に困ったといいます。
また、西郷が小舟を漕いで網を張り、泳ぎの達者な愛加那が魚を追い込むという漁をすることもありました。
のどかな島で愛加那とのひたむきな愛情に包まれた暮らしは、2年余り続き、二人の子宝にも恵まれました。

しかし、やがて幕末の嵐は西郷を再びその渦中へと呼び戻します。
島を去った西郷。
しかし、愛加那は島の掟により、奄美を出ることは許されず、二人の子は薩摩の西郷家に引き取られました。

その後、西郷は維新の立役者となりましたが、明治10年の西南戦争で死去。
いっぽう愛加那は、西郷が残してくれた田畑を守りながら、
一生島から出ることなく暮らし、明治35年に66歳で亡くなりました。
彼女の遺品から、毛髪が発見されています。
西郷との短い暮らしの中で彼女は毎朝、西郷の髪を梳いてあげていたそうで、
その抜け毛をみな大切に保存しておいたものなのです。

2/6「ゆるやかなボール」

1920年、テニスのウィンブルドン選手権に日本人として初めて出場したのは、清水善造(ぜんぞう)。
学生のころからテニスを始め、その後商社マンとして働くアマチュア選手でした。

当時は、決勝の勝者が前年のチャンピオンに挑戦するチャレンジ・ラウンドという制度でしたが、
彼はこの初参加のウィンブルドンでいきなり決勝まで勝ち進んでいったのです。
その強さとともにスポーツマンシップにあふれた潔いプレイぶりが評判となり、
そのにこやかな笑顔から、観客たちは「スマイリー・シミー」という愛称をつけて清水を応援するほどの人気でした。

そして迎えた決勝の対戦相手は、全米トップの強豪チルデン。
その第3セットのラリー中にチルデンの足がもつれ、打ち返すと同時に右コーナーに倒れてしまいました。
返ってきた球を清水はどう打ち返すか・・・。左サイドへ強く打ち込めばよいのですが、
チルデンも当然その事は予想して、起き上がりざま左へ走るはず。
ならばその裏をかいて・・・。その一瞬の迷いのために、
清水が打ったボールはチルデンの倒れていた右へゆっくりと円弧を描いて飛んだのです。
起き直ったチルデンが激しく打ち返したその球は、清水のわきをすり抜けていき、
これをきっかけに清水は試合に負けてしまいました。

しかし、このプレイを観ていた観客たちには、倒れたチルデンが起き上がって打ち返せるように、
ゆっくりとした球を送ってやったと映ったのです。
それは偉大なフェアプレイとして日本にも伝えられ、学校の教科書にも美談として紹介されました。
「そんなつもりではなかった」とずっと否定していた清水選手。
その真偽はともあれ、彼はそのとき戦ったチルデンとは親友になり、その友情は生涯続きました。

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