2011年1月アーカイブ

1/23「命を継ぐ布」

一年で最も寒い、大寒を迎えています。
雪深い東北地方では、その昔、布はとても貴重なものでした。
寒冷地では綿花の栽培ができないため、人々は麻を植え、繊維から糸を作って麻の布を織りました。
そして、目の粗い麻のすき間を埋めて保温性を高めるために、
女性たちが一針ひと針丁寧に縫い綴っていった技術が、「刺し子」と呼ばれるものです。

寒さをしのぐもう一つの知恵が、江戸時代から伝わる「ドンジャ」と呼ばれる夜具。
丹前のような形をした麻布の蒲団で、囲炉裏の前でこれを着て座り、寝るときはこれがそのまま蒲団となるのです。
何世代にもわたって使われたドンジャは、冬を越すごとに新しいツギハギが重ねられ、
重さは10キロを超えるものもあります。

このドンジャは家族一人一人にあるわけではありません。
ひとつのドンジャに夫婦や親子が裸になって肌を寄せ合って眠ります。
お互いの体温で温め合うための工夫なのです。
だから、たとえ昼間に夫婦喧嘩や親子の諍いがあったとしても、
夜になればお互いを許し合って眠るという暮らしがありました。
九州の気候では考えられないかもしれませんが、
ドンジャは、家族全員が仲良く力を合わせて生き抜いてきた証でもあるのです。

あらゆるものが全国に流通するようになったいま、ドンジャは東北の暮らしから消えていきました。
しかし、ドンジャは、かつての東北の貧しい時代の遺物ではなく、
家族を想う愛情と、人々が育んできた命が刻まれている布の文化として、
民俗学の分野で保存され、現在に伝えられています。

1/16「迷惑かけて、ありがとう」

ボクシングの元日本フライ級チャンピオン・斎藤清作(さいとうせいさく)さん。
「たこで〜す」で人気者になった、たこ八郎さんと言ったほうがお馴染みかもしれません。

たこさんは昭和15年、宮城県仙台市で生まれ、
幼いころ、友だちが投げた泥だんごが目に当たり、左目の視力を失ってしまいます。
それでも、ボクシングを志し、プロテストのときは視力表を丸暗記して合格した、と後に語っています。

彼の武器はノーガード戦法といって、相手に打たせるだけ打たせて、
相手が疲れたころに一気に反撃するファイトスタイルです。
後に、漫画「あしたのジョー」のモデルになったともいわれ、対戦相手にとっては、本当に不気味な相手だったそうです。
しかし、頭部に受けたダメージが大きく、やがてパンチドランカーになってしまい、言語障害と夜尿症に悩まされました。

引退後は知り合いの家を転々としながら、コメディアンや俳優としても活躍しますが、
セリフを覚えられないのでチョイ役ばかりです。
それでも彼の素朴で温厚な人柄はだれからも愛され、
お酒が大好きだった彼は飲み屋でも「たこちゃん、たこちゃん」と親しまれて、代金を請求されることはありませんでした。

彼の口癖は「迷惑かけて、ありがとう」。
最期はお酒を飲んで海に入り、心臓発作で昭和60年に亡くなりましたが、
師匠だった由利徹さんや赤塚不二夫さんたちの手で「たこ地蔵」が建てられました。
その地蔵のお腹には「迷惑かけて、ありがとう」の文字。
人間関係が希薄といわれる昨今では、迷惑をかける人がいるだけでもありがたい、
という深い意味が込められているようにも思えます。

1/9「新聞少年」

「新聞少年」という言葉があります。
各家庭に新聞を届ける戸別配達網。
その一翼を担っているのが、新聞少年と呼ばれる多くの子どもたちです。
新聞配達をする高校生や大学生はいまも見かけますが、
昔??昭和40年代くらいまでは、小学生の姿も見受けられました。

現在、福岡市内に住む56歳の平野さんもその一人。
46年前、母子家庭で小学生だった彼は、少しでも家計の助けにと、夕刊の配達をしていたのです。
60部の新聞を束にして襷にかけ、1時間かけて田舎道を走りながら配っていく毎日。
放課後、友だちと遊ぶことが出来ない寂しさを抱えながら、お母さんのためにという一心でがんばっていました。

ある冬のこと。大雪が降り積もりました。
それでも彼はいつものように新聞の束を抱えて配達に出発しました。
でも、配達を終えて帰宅したのは、日が暮れて夜になったころ。
暗くなっても帰ってこない息子を心配したお母さんが、家の表で待っていました。
彼の帰りが遅かったのは、大雪のせいだけではありませんでした。
新聞を配って歩く先々の家で引き止められ、暖を取っていくことをすすめられたり、
温かいココアを飲ませてもらったりしたからなのです。
そしてポケットには、キャラメルやチョコなどのお菓子がいっぱい。
「お小遣いにしなさい」と持たされた、紙に包んだ50円玉も入っています。
配達先でのいたわりや激励。
雪の降る寒い日にも健気に新聞配達をする小学生に同情してのこともあったでしょうが、
小学生の平野さんは、このとき「僕が配る新聞を地域の皆さんが待っている」ことを強く感じたそうです。

家庭の事情で仕方なく始めた新聞配達ですが、それから彼は、新聞少年としての責任と誇りを持ちながら、
中学を卒業するまで、一日も休むことなく新聞配達をやり通したそうです。

1/2「アトムの腕」

今から48年前??昭和38年の元旦、日本で初めての国産テレビアニメが放送されました。
その番組とは、漫画家・手塚治虫の手による「鉄腕アトム」。
人間と同じ心をもったロボット「アトム」が活躍する、21世紀の夢の物語です。

この番組は30%を超える人気を博し、その後、世界各地でも放映されました。
このアトムを見て育った当時の子どもたちは、ロボットが人間と仲良く暮らす21世紀の未来に強い憧れを抱きました。
その中には、「アトム」がきっかけとなってロボットの研究を志す者も多く、
現在の日本の高度なロボット技術力には、この作品の貢献が大きいともいえます。

千葉県に住む7歳のミクちゃんは、生まれつき右手の手首から先がない障害を抱えていますが、
不自由な手で折り紙を器用に作ったりする元気な少女です。
そんな彼女の右手に最近、人工の腕が取り付けられました。
かつての義手といえば、外見上、腕があるように見せるだけのもの。
しかし、アトム世代の研究者や技術者たちが開発した最新の義手は、
人間の手とまったく同じ動きができるロボットなのです。

この「アトムの腕」を身につけたミクちゃんが最初にしたのは、
1本1本の指を動かしてグー、チョキ、パーの形を作ってみせたこと。
大喜びした彼女は、握る、離す、手首を回すといった動きの訓練を一生懸命して、
ついに学校の給食でお茶碗を自分で持って食べるという、ずっと夢見ていたことに成功したのです。
そして今、彼女は次の夢??大好きなピアノを自在に弾くことに挑戦しているそうです。

21世紀になって今年で12年目。
人間とロボットが仲良く暮らす「アトム」の夢は、今このような形で実現しているのです。

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