2010年12月アーカイブ

12/26「日の丸の茜色」

薩摩藩十一代藩主、島津斉彬(しまづ・なりあきら)。
幕末の名君と謳われ、日本の国旗、日の丸を誕生させたことでも知られますが、
そこには福岡藩十一代藩主、黒田長溥(くろだ・ながひろ)との熱き絆がありました。

実は、長溥は島津家の出身で斉彬の大伯父にあたります。
とは言っても二人は二つ違いで、兄弟のような間柄であったといわれます。
長溥は11歳の頃に福岡藩の黒田家に養子として迎えられ、やがて藩主となります。

一方、斉彬は家督相続をめぐってお家騒動が起こり、斉彬派への激しい弾圧の中、
4人の藩士が脱藩して福岡藩に逃げ込み窮状を訴えます。
薩摩藩は直ちに藩士の引き渡しを求めますが、長溥はこれを拒絶すると、
幕府老中(ろうじゅう)を通じて将軍家慶を動かし、
薩摩藩のお家騒動を鎮めると、ついに斉彬を藩主の座に導くのです。

斉彬が日本の船印(ふなじるし)、船に掲げる旗として日の丸を幕府に進言したのは、
それから3年後のことですが、薩摩藩には日の丸を赤く染める技術がなく斉彬は苦慮します。
しかし、長溥が治める福岡藩にあったのです。
穂波郡山口村の茜屋(あかねや)に伝わる筑前茜染めで、
茜草(あかねそう)から生まれる秘伝の茜色は鮮やかで美しく、日の丸に相応しいものでした。
この茜染めの日の丸が日本の国旗の始まりとなりました。

その赤き色、それは新たな時代に向かう胎動の中で懸命に生きた二人の藩主の、熱き絆の色でもありました。

12/19「初めて空を飛んだ二人」

今から100年前の今日??明治43年12月19日、日本の空に初めて飛行機が舞い上がりました。

操縦したのは、徳川好敏(よしとし)と日野熊蔵。
ともに陸軍の将校で、ヨーロッパに留学して操縦法を学び、
それぞれフランス製とドイツ製の飛行機を日本に持ち帰って合同で飛行実験を行なったのです。
いわば、この二人は、初めて空を飛んだ日本人。
ところがその後、二人のうち日野熊蔵の名前が、この史実から消えてしまいました。

日野は軍人というより生粋の技術者。
仕事そっちのけで飛行機に熱中することから、軍律を乱す人物とみなされ、東京から福岡へ左遷。
それとともに「初めて空を飛んだ日本人」という栄誉も剥奪されたのです。
しかし、福岡に赴任した日野は気落ちすることなく、
ますます大好きな飛行機の設計や飛行実験に情熱を傾けていきました。

その後、日野は40歳の若さで軍人を退役し、発明家として生涯を貫き、昭和21年、67歳でこの世を去ります。
彼が日本の空を初めて飛んだ人物だということを知る人はいませんでした。

しかし、昭和35年。
日本の航空50周年を記念した祝賀会に、初めて空を飛んだ人物として、76歳になった徳川好敏が招かれました。
その挨拶で彼はこう語りました。
「私どもの50年前の飛行が、このようなお祝いを受ける価値があるとすれば、日野さんの霊といっしょにお受けしたい」

徳川は、ともに空を飛んだ日野の消息をひそかに探していたのです。
現在、東京で二人が初飛行をした跡地の代々木公園には、
日本の空のパイオニア??徳川と日野の銅像が仲良く並んでいます。

12/12「料理に込められた想い」

鹿児島県の霧島食育研究会は、毎年秋に「霧島・食の文化祭」を開催しています。
このイベントは、子どもや孫に伝えたい郷土料理をひとりひとり持ち寄って会場で披露するものです。
参加者は千人を超え、会場内はまるで家庭料理大集合といった雰囲気に包まれます。

このイベントのルールはただ一つ。
持ち寄った料理といっしょに「その料理への想い」を紙に書いて提出することです。

80代の女性が作って持ち寄ったのは、「塩ドーナツ」。その想いとして、こんなことが書かれていました。
「戦後の昭和21年、お腹を空かせた3人の妹たちのために作った塩ドーナツです。
砂糖が手に入らないので、小麦粉に重層と塩を入れて作りました」
いまでは、砂糖が手に入らないなんて想像もつきませんが、
3人の妹さんたちは、しょっぱいドーナツに込められたお姉さんの愛情を感じとったに違いありません。

また50代の女性は、「母ちゃんの声」という名前の高菜のおにぎりを提出しました。
彼女の母親は、畑に行く前に必ず、
「やすこー、きよみー、さとるー、畑に行ってくるよー」と幼い子どもたちに呼びかけ、
高菜のおにぎりを置いていかれたそうです。
けっして裕福ではなかったのに、子どものために高菜のおにぎりを握ってくれたお母さん。
残念ながら、早くに亡くなったそうですが、彼女にとって、高菜のおにぎりは「母ちゃんの声」そのものだったのです。

料理を見るだけで思い出す、大切な人、大切な時間。
それを次の世代に伝えていくことが、食育の原点なのではないでしょうか。

12/5「フェアプレイに金メダルを」

ロン・クラークは、1950年代から60年代にかけて活躍したオーストラリアの陸上長距離選手。
1970年に引退するまで世界記録を17も作った偉大なランナーですが、
オリンピックではいつも優勝候補の筆頭に挙げられながら、一度も勝つことがありませんでした。
そのわけは、あまりにもフェアプレイにこだわり過ぎたからです。

世界中からトップレベルの選手が集まるオリンピックでは実力が伯仲しているので勝負がつきにくく、
どのようなペース配分で走るか、相手のペースをどう崩すかなどといった戦略や選手どうしの駆け引きが求められます。
ところが、クラークは、スタミナを温存しておいて
ゴール前でさっと逆転するようなレース運びさえも潔しとしない、フェアプレイ一途の信念の人。
世界中のどんなレースでも、スタートからゴールまで堂々と全力を尽くして走るというスタイルを、頑なに守り続けたのです。

その結果、実力は下でもレース運びが巧みな選手に負けることもたびたび。
地元オーストラリアの新聞からは、
「クラークは走ることを楽しんでいるだけで、何がなんでも勝つ気がない」などと非難されました。
しかし、オリンピックで金メダルが取れないクラークと走った世界中の選手たちは、
駆け引きひとつしない彼の哲学を尊敬していました。

1968年。クラークがプラハに遠征したとき、オリンピック2大会で金メダル4個に輝くザトペックと知り合い、意気投合します。帰国する日、空港での別れで、ザトペックは「これを記念にあげよう」と、小さな箱をクラークのポケットに押し込みました。離陸した飛行機の中で、箱を取り出したクラークはびっくり。
そこにはザトペックがヘルシンキ大会の1万mで獲得した金メダルが入っていたのです。
そして、そこにはこのようなメッセージが記されていました。

「これは友情から差し上げるのではなく、君が金メダルに値する人間だからだ」。

アーカイブ