2011年7月アーカイブ

7/31〔歌い継がれる「夏の思い出」〕

「夏が来れば思いだす はるかな尾瀬 遠い空」
今も歌い継がれる「夏の思い出」を作詞したのは江間章子(えま・しょうこ)さん。
戦後間もない昭和24年のことでした。

当時、「ラジオ歌謡」という番組を放送していたNHKが
「荒廃した国土に暮らす日本国民に夢と希望を与える歌を流したい」と、詩人の江間さんに作詞を依頼したのです。
しかし、疎開先から戻ったばかりの江間さんも、夢も希望も失った一人でした。
そんな江間さんの心に浮かんだのが、戦時中に食料を求めて訪れた
群馬の尾瀬で辺り一面に咲き揃っていた水芭蕉の美しい姿でした。
故郷・岩手でも咲いていましたが、水芭蕉が群生する尾瀬の景色には思わず見とれてしまったといわれます。

戦争の最中(さなか)の苦しい思いを、ひととき忘れさせてくれた、その思い出を江間さんは歌にしたのです。
そして、ラジオから流れた「夏の思い出」は多くの人々の心を癒し、絶えることなく歌い継がれました。

江間さんの故郷、岩手県八幡平市(はちまんたいし)では、
江間さんを称えて小中学生を対象にした詩のコンテスト、江間章子賞を創設。
江間さんも賞の授与式に出席していましたが、平成17年に91歳で亡くなりました。

それから5年、13回を迎えた昨年のコンテストでは846篇もの応募作品の中から4人の少年少女の詩が選ばれています。
江間さんの詩の心は、今も若き世代に受け継がれているのです。

7/24「女性医師の誕生」

1849年、アメリカ。
世界で初めて、専門教育を受けた女性医師が誕生しました。

彼女の名前はエリザベス・ブラックウェル。
仲良しの友だちを病気で亡くした悲しみから、医者になることを決意します。
しかし、当時の社会常識では、医者の仕事を女性がするなど、とんでもないことだと考えられていました。
彼女を受け入れてくれる医学校などありません。

そこで彼女は、医学書を読みあさったり、知り合いの医者に頼み込んで、
治療や解剖の現場を見学して、独学で医学の基礎知識を学んでいったのです。
そんな彼女の熱意に打たれた一人の医学博士が、
ようやくニューヨークの医科大学に彼女の入学を推薦してくれました。

入学後は良い成績で学業をこなし、主席で卒業。
その後、研修として外科を学ぶためにパリへ行きますが、
ヨーロッパでも女性の医師は認めてもらえず、やっと受け入れてくれたのは産婦人科病院。
それも助産婦という扱いでした。

さまざまな差別や困難の中、それでも彼女は医学の研究を貫き通します。
そして帰国後、彼女はニューヨークの貧民街で経済的に恵まれていない女性と子供のための診療所を設けました。
それが軌道に乗ると、女子学生のための医学校も設立しました。

彼女は自分の後に続く女子学生たちにいつも語っていました。
「本当の医師は、女性ならば、自然にもっている優しさ、思いやり、人を守る心がけをもたなければなりません。
患者さんは人であって、個々の病気の症例ではないのです。そのことを忘れてはいけません」
1910年、エリザベス・ブラックウェルは89歳の生涯を閉じました。
それから100年。
医師をめざす女性は世界中で数えきれないほどいます。

7/17「撃墜王の沈黙」

第二次世界大戦中に日本海軍の戦闘機パイロットだった坂井三郎さんは、
200回以上の出撃で64機の敵機を撃墜するという突出した数字が残っています。
ところが坂井さんが、晩年までだれにも話さなかった戦時中のエピソードがあります。

南方戦線でインドネシア上空を飛んでいた彼は、敵国であるオランダ軍の輸送機に遭遇。
このとき、彼には敵機に遭遇した場合には軍用機、民間機の別なく撃墜せよという命令が出ていました。
そこで、攻撃するために輸送機に接近した瞬間、その輸送機の窓の内側に怯えきった女性の顔を見たのです。
坂井さんは一瞬の迷いの後、撃墜するのを止め、輸送機に向かって手を振り、離れていきました。
坂井さんがその事実をずっと隠してきたのは、自分のしたことは人間として正しかったかもしれないが、
軍人としては最低なのでは?と悩み続けていたからです。

ところが戦後50年経って、あの輸送機の中にいたオランダの女性が、
あのとき自分たちを見逃してくれた日本軍のパイロットにお礼を言いたいと、
日本赤十字社を通じて、坂井さんのことを探し出したのです。

50年ぶりに再会した席で女性は、坂井さんの戦闘機が離れていった直後の輸送機の様子を伝えました。
病人、負傷者、老人、女性や子どもたちが一斉に歓声を上げ、抱き合って喜び合ったと。そしてこう続けました。
「輸送機に乗っていた人々は、戦後たくさんの家族を持ちました。
つまり、あなたは、数え切れないほどの命を救ってくれた恩人なのです」

その言葉を聞いて、坂井さんは50年前の自分の行動の正しさを心から信じることができたそうです。

7/10「1万の善」

大分県日田市には、江戸時代末期に「咸宜園」(かんぎえん)という私塾があり、
全国から入門者が殺到する名門塾として知られていました。

咸宜園の大きな特徴は、身分、年齢、学歴を一切問われることなく入門できるという点。
塾生の中には、8歳の町人もいれば42歳の士族もいて、こうした人たちをすべて公平に受け入れたのです。
ただし、一旦入門すると、月に1回試験を行い、その学力によってクラス分けされます。
もちろん成績がよければ、身分、年齢、学歴に関係なく進級。
このような選抜制度は、当時の日本はもちろん、世界的にも先駆的な教育システムでした。

咸宜園を主宰していたのは、日田で生まれ育った儒学者の広瀬淡窓(ひろせたんそう)。
彼は学問に対しては厳しい反面、遊び心を多分に秘めた人でもありました。
その代表的なものが、「万善簿」(まんぜんぼ)と名づけた、淡窓自身の自己採点表。
これは日常の行動をすべて善悪に分け、善は白丸、悪は黒丸でそれぞれ表したものです。

善悪の基準はあくまで淡窓自身の勝手気まま。
たとえば、「塾生に梨をふるまった」??これは白丸ひとつ。
「悪さをするネコを叩いた」??これは黒丸3つ。
「酒を飲み過ぎた」ことでも黒丸2つ、という具合です。
こうして月末に善悪の数を差し引き計算し、年末には1年分を集計。
白丸が1万になるのを目指したのですが、54歳から12年かかって白丸1万を達成したようです。

淡窓が生涯を通じてこだわった「善」。
この万善簿は時を超えていま、子どもたちの総合教育に取り入れられています。

7/3「スポーツと友情」

かつて東西冷戦の中でボイコットに揺れた1980年のモスクワオリンピック。
日本はアメリカの意向に添って参加しませんでしたが、
このとき、政治の介入を阻みIOC憲章に則って参加すべきだ、と強く反対する日本人がいました。
IOCの副会長だった清川正二(きよかわまさじ)さんです。

彼は1932年のロサンゼルスオリンピックに水泳選手として出場。
その当時、満州事変から米国では排日運動が高まり、会場にも険悪な空気が充満していました。
ところが、清川さんら日本の選手がどんどん勝ち始めると、まるで氷が溶けるように会場の空気が和らいできたのです。
百メートル背泳で清川さんは日本初の金メダリストになりましたが、その表彰式を米国の十万人の観衆が祝福しました。

時移って1948年の全米選手権大会。
清川さんは日本水泳選手団のコーチとして、敗戦直後の日本から再びロスに来ました。
「ロスには太平洋戦争で身内の人を失った遺族の方も多いに違いない。
日本選手の活躍がそんな人たちの感情を損ねるのでは」と気に病む清川さん。
でも、その心配は杞憂に終わりました。
日本選手たちの圧倒的強さに、現地の観客は心から惜しみない拍手を送ってくれたのです。
そして日本選手の宿舎には数多くの人たちが訪ねてきて、握手を求め、お祝いの言葉を述べ、
「日本は食べ物や着る物がなくて困っているだろう」と、
菓子や服などの贈り物を、持ちきれないほど届けてくれました。
この体験によって清川さんは、スポーツが政治を超えて国を超えて友情を結ぶことを確信したのです。

「だから、国と国が政治的に対立していてもオリンピックで友情を結ぶべき」
??これが晩年の清川さんの断固とした訴えだったのです。

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