2011年8月アーカイブ

8/28「漱石、文豪への道の途中」

文豪、夏目漱石には作家の前に教師の時代がありました。
帝国大学を卒業した漱石は英語教師となり、29歳のときに熊本市の第五高等学校に赴任。
2年前に退任した小泉八雲の後任でした。

漱石は英語教育に精力的に取り組み、有能な学生の学費を援助。
またボート部の部長としても活躍し、あるとき、海軍省からボートを譲り受けることになった際、
佐世保まで受け取りに行った学生達が、なんと飲食代に散財して100円もの借金を作ってしまうのです。
それは漱石のひと月分の給料でしたが、何も言わず漱石は一人で弁済したといわれ、
その懐の深さで五高生に慕われました。

その後、漱石は文部省の要請でイギリスに留学。
帰国すると東京帝国大学に講師として招かれます。
またも小泉八雲の後任でした。
ところがこのとき、八雲を慕う学生達が留任運動を展開。
漱石の講義は不評で、自信を失った漱石は辞職願を提出したほどでした。

教師として味わった挫折。
この翌年の明治37年、八雲が突然の病で亡くなり、
それから間もなく漱石が執筆したのが処女作「吾輩は猫である」でした。
その中で、主人公に「惜しいことに先生は永眠されたから」と八雲のことを語らせています。

図らずも、教師として作家として八雲の後ろ姿を見つめることになった漱石。
その後の漱石は、栄えある東京帝国大学の教授への誘いを断り教職を辞して、作家の道を邁進するのです。

8/21「日本最古の小学校舎」

民家の屋根瓦も壁も格子窓も、町並み全体が銅(あかがね)色に染まった岡山県高梁(たかはし)市吹屋(ふきや)。
その山間の小さな町の丘の上に建つのが、高梁市立吹屋小学校。
明治33年に建てられ、現在も使われている小学校木造校舎としては日本最古です。

黒ずんだ板張りに赤茶色の石州瓦(せきしゅうがわら)。
玄関から校舎を見上げると、明治時代にタイムスリップしたような感覚になります。
その美しさは夜間のライトアップで黄金色に輝き、プールの水面に映る本館はまるで金閣寺のような趣です。

111年目を迎えた吹屋小学校の今年の児童数は7人。
明治の最盛期に比べると寂しい数ですが、その代わり、授業はもちろん掃除や給食など、
児童と先生は何をするにもいっしょ。
校庭には野菜畑もあって、きゅうりやトマトの栽培には近所の農家の方が指導してくれます。
運動会ともなれば、学校内だけではなく地域ぐるみの大イベントになります。

吹屋の町の皆がやさしく見守ってきた吹屋小学校。
何よりも、この学校で学ぶ子どもたち自身が、自分たちの校舎に誇りを持っています。
それは、自分たちのおじいちゃん、おばああちゃんや、
もっと昔の吹屋の町の人たちが学んだ同じ校舎で勉強ができることを嬉しく思う気持ちです。

ところが、今後の入学者が増える見込みが立たないことから、吹屋小学校は来年3月で閉校されることになりました。
校舎はその後も重要文化財として保存されるようですが、その中から子どもたちの元気な声はもう聞こえなくなるのです。
「7名の児童には、最後の在校生として一日一日、校舎に愛情を注いで過ごしてもらいたい」?
これが日本最古の小学校の最後の校長となった先生の願いです。

8/14「5打席連続敬遠」

平成4年8月16日。夏の甲子園2回戦の明徳義塾高校対星稜高校の試合で、その事件は起こりました。

高校野球史上屈指のスラッガーとして注目を浴びていた星稜の4番打者が、
明徳から徹底的にマークされた末に、5打席連続敬遠されたのです。
この試合で彼は一度もバットを振らせてもらえないまま、星稜高校は2回戦で敗退してしまいました。

超満員のアルプススタンドからは明徳の敬遠作戦を非難する大きな怒号が湧き、
実況中継するアナウンサーも「勝負してほしい」とコメント。
翌日の新聞には「そこまでして勝ちたいか」と活字が踊り、
高野連の会長が異例の会見を開いて明徳の投手を名指しで批判しました。

しかし、大人たちがヒステリックな大騒ぎをする中で、
ことを冷静に受け止めたのは、その当事者である両校の選手たちです。
敬遠は、野球をする上で認められた立派なルール。そ
のルールに則り、試合に勝つために最良と思われる選択をとった??それだけのことなのです。
9回を投げ切ってマウンドを降りた明徳の投手は、試合後に報道陣から敬遠のことを訊かれて、
「チームが勝つために、監督の指示通りにやったことです」と答え、
5打席すべて一度もバットを振ることができなかった星稜の4番打者は、
その心境を問われて、「野球には、こういうこともあります」と淡々と答えました。

そして、この試合に負けた星稜高校は、
試合に勝った明徳義塾高校のチームに自分たちの千羽鶴を託して、健闘を祈ったのです。
ちなみに、この試合で一度もバットを振ることができなかった星稜高校の選手の名前は、松井秀喜。
現在、大リーグで活躍する松井選手、18歳の夏の思い出です。

8/7「未来を生きる子ら」

長崎原爆資料館の前には、振り袖を着た二人の少女が空を飛ぶブロンズ像があります。

モデルとなった少女の一人は、福留美奈子(ふくとめみなこ)ちゃん。
京都に住んでいた子ですが、両親が仕事で上海に行くことになり、
長崎の親戚に預けられていたときに被爆して亡くなった女の子です。
美奈子ちゃんを預かっていた伯母さんは、
亡くなった美奈子ちゃんに戦時中は着ることが許されなかった振り袖を着せ、
同じく振り袖を着たもう一人の少女とともに火葬してもらうようにお願いし、
やがて自分自身も被爆によって亡くなりました。

この少女の火葬の様子を偶然目にしたのが、当時中学生だった松添博(まつぞえひろし)さん。
彼は日本人形のようにかわいらしい女の子が焼かれる姿が頭から離れず、
一枚の絵にして多くの人々に原爆の悲惨さを訴えました。

そして終戦から43年後。
松添さんは自分が絵にした少女たちの身元を探すことを思い立ちます。
さまざまな協力があり、美奈子ちゃんの母親が京都にいることが分かりました。
86歳になった母親の志なさんは、自分が亡くなるまでに長崎に小さなお地蔵さんを建てたいと願っていました。
この願いは京都の中学生や高校生を中心に広まり、やがて「長崎にふりそでの少女像をつくる会」へと発展します。
そして全国から募金が寄せられ、志なさんの願いは、
小さなお地蔵さんではなく、立派なブロンズ像として叶えられることになったのです。

振り袖を着た少女の像は「未来を生きる子ら」と名付けられ、
長崎の空を羽ばたきながら今も世界平和を訴えています。

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