2011年9月アーカイブ

9/25「林間学園」

「日本のアンデルセン」と呼ばれた児童文学者・久留島武彦(くるしまたけひこ)。
彼は、明治・大正・昭和の三代にわたって全国を回り、
子どもたちの前で身ぶり手ぶりを交えながら童話を語り聞かせ、「童話のおじさん」と親しまれました。
その久留島武彦が晩年になって打ち込んだのは、
子どもたちのために自然の中で生きた教育をしたいという思いで、
昭和12年に当時の北九州市・到津遊園に開設した林間学園です。

通常の学校行事で行われる林間学校ではありません。
夏休みの5日間、それまで見知らなかった子どもたちがこの林間学園に入学し、
動物園の森の中でさまざまな野外活動をしながら友情を育んでいくというカリキュラムは、
それまで日本ではだれも考えたこともない生きた自然教育。
自ら学園長となった久留島武彦は、講師の一人としても森の中で
子どもたちを前に童話を語り聞かせるなどの授業をしました。
彼は20年間その責務を全うし、昭和35年に86歳で亡くなりましたが、
その後も林間学園は北九州の子どもたちにとって、
なくてはならない夏の風物詩として続いていきました。

10年ほど前、累積赤字のために到津遊園の閉園が発表されました。
それに反対して立ち上がったのは北九州の人たち。
存続を求めて集まった署名が26万以上という前代未聞の数を記録したのです。
北九州市民にとって、到津の森はたんなるレジャー施設ではありません。
60余年の伝統をもつ林間学園に、親、子、孫の三代で学んだ家庭も多く、
彼らにとって到津の森は、消すことのできない大切な思い出の地なのです。

到津の森公園として再出発した到津の森。今年の夏開かれた林間学園は第72回を数えています。

9/18 「正岡子規とベースボール」

明治23年夏。四国・松山での出来事です。

地元の中学生・キヨシ少年が空き地で仲間たちと夢中になっていたのは、
当時まだあまり知られていなかった「ベースボール」という球遊びでした。
そこに通りかかったのは、東京帰りの書生さんたち。
そのうちの一人がキヨシ少年に「おい、ちょっとお貸しの」と、バットとボールで軽くノックをやり始めました。
その書生さんは目も覚めるような鋭い打球を飛ばして見せました。

そのうち、一度ボールが書生さんの手元を外れてキヨシ少年の前に転がってきました。
キヨシ少年がそのボールを拾って投げ返すと、その書生さんは「失敬」と軽く言ってそのボールを受取りました。
その「失敬」というひとことが、なんとなく心を惹き付けるような声だったことを、キヨシ少年は印象深く覚えています。

このときのキヨシ少年とは、後の高浜虚子。
そして彼の目の前で素晴らしいバッティングを披露した書生さんこそ、正岡子規。
二人は俳句の世界で師弟関係を結びますが、その出会いはベースボール・野球でした。

明治を代表する文学者としてあまりにも有名な正岡子規ですが、
じつはそれ以上に野球が大好きで、野球に関係のある句や歌を多数残しています。
現在の「直球」「死球」「打者」「走者」などの野球用語は、大部分が子規の和訳によるもの。
日本に野球を広めた功績から、野球殿堂入りもしているのです。

草茂みベースボールの道白し 正岡子規

明日、9月19日は正岡子規の命日で、彼を偲ぶ記念の句会が全国各地で催されます。

9/11「伝説の歌姫」

オペラで女性の一番低い音域の歌声をとくにコントラルトと呼びますが、
1930年代のアメリカで「百年に一度の声」と絶賛された伝説のコントラルト歌手がいます。
マリアン・アンダーソン。
12歳で父親を亡くし、貧しい母子家庭で育ちましたが、幼少のころから並外れた歌の才能を発揮し、
高校生になると謝礼をもらって音楽会で歌うほどになりました。

ところが、その後、本格的に音楽の教育を受ける段階でも、
キャリアを積む過程でも、彼女の前に立ちふさがった壁がありました。
それは当時のアメリカ社会に当たり前のように存在していた人種差別という壁。
アフリカ系アメリカ人の彼女は、肌の色が黒だという理由で、実力を持っていながら音楽学校に入学できず、
独学の末にプロデビューを果たしてもラジオ局で放送されないなど、苛酷な差別を強いられたのです。
しかしそのたびに彼女はひたむきな努力と周囲の援助によって困難を乗り越え、
その歌唱力の真価はヨーロッパで絶賛されました。

ところが世界的名声を博してアメリカに帰国した彼女を待っていたのは、やはり人種差別。
1939年にワシントンでコンサートをやろうとしたとき、ワシントン一の大きさを誇るホールは彼女の出演を拒否しました。
この事件を新聞報道で知り心を痛めた大統領夫人の働きかけで、
ワシントンのリンカーン記念堂前の階段でマリアンの青空コンサートが開かれることになりました。

集まった聴衆は7万5000人。この大群衆を前に全霊を傾けて歌ったマリアンの歴史的な青空コンサートは、
その後、黒人差別撤廃と人権平等を求める闘いのシンボルとなったのです。
しかし彼女自身は差別について直接訴えることはありませんでした。
彼女はただただ歌うことによって人々の魂を揺さぶり、後に続く黒人たちの行く道を照らす光となったのです。

9/4「動物慰霊祭」

昭和18年9月4日。東京・上野動物園で、ある慰霊祭が催されました。
当時の日本は太平洋戦争の真っ只中。
トラやライオンなどの猛獣、ゾウやクマといった大型動物が毒を混ぜた餌で殺されることになりました。
戦争という非常事態とはいえ、愛情を注いで育ててきた動物たちの命を
自らの手で奪わざるを得なかった動物園の飼育員たちによる、動物の慰霊祭なのです。

ところが、この慰霊祭の当日、ゾウの檻は黒と白の幕で囲われ、中が見えないようになっていました。
なぜなら、殺されたはずのゾウが、じつはまだ生きていたからです。
嗅覚が鋭いゾウはけっして毒が入った餌を食べようとはしないので、絶食によって餓死させる処置がとられました。
ゾウの餌を保管する倉庫は閉鎖され、近づくことも禁止されました。
しかし、教え込んだ芸の仕草で無心に餌をねだるゾウに、
こっそり餌を与えずにはいられなかったのが、このゾウの担当飼育員です。

彼は、戦時中の食料不足でひもじい思いをしている自分の家庭の食卓からイモを持ち出して、
こっそりとゾウに与え続けたのです。
上からの命令とはいえ、長年世話をしてきたゾウをどうしても裏切ることはできなかった飼育員。
また、その心情を痛いほどわかっているからこそ、動物園の同僚たちも彼の行為を見て見ぬ振りをし、
慰霊祭のときにはゾウが生きていることがばれないように皆で協力したのです。

数日後、ゾウは鉄の檻にもたれながら死んでしまいました。
動物園の同僚たちは皆あつまり、声をあげて泣きました。
そして叫びました「戦争をやめてくれ」

それから68年。上野動物園ではいまも毎年9月に動物慰霊祭が行われています。

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