2011年10月アーカイブ

10/30「伝説の長崎土産」

長崎の町では、昭和30年代から40年代にかけ、「頓珍漢人形」と呼ばれる小さな素焼きの人形が土産店で売られていました。
それは手びねりで作られ、泥絵の具で色とりどりに彩色されたものですが、
一体一体の姿形が違い、泣いたり笑ったり怒ったりと、それぞれユーモラスな表情。
値段も30円から70円ほどと安く、観光客に人気がありました。

この人形を作ったのは、久保田馨(かおる)さん。
26歳のときに長崎市内にわずか2坪ほどの小さな工房を開き、人形作りを始めました。
「頓珍漢」という呼び名は、原爆を作ったり戦争をしたりする人間の
愚かさや悲しさを「頓珍漢」という言葉に託したもので、久保田さんは「平和を信じて人形を作っていく。
戦争を憎んで人形をおどけさせる。
頓珍漢は平和な国をつくる槌音(つちおと)」という言葉を記しています。
人形の人気を当て込んで東京のデパートから大々的に売り出したいといった話もありましたが、
久保田さんは一切応じず、長崎の土産物店だけに卸し、
自分の生活は苦しくとも、子どもでも気軽に買える安い値段で売ることにこだわり続けました。

彼は17年間で30万体もの頓珍漢人形を作りましたが、昭和45年、病に冒され死去。
42歳の若さでした。
久保田さんが亡くなった後、頓珍漢人形も途絶えてしまいました。
それまでに作られた30万体の人形も、
気軽に買える長崎土産として全国へ散らばっていったので、長崎からその姿は消えていきました。

それから30年以上の時を経た平成13年。
長崎市内の旧香港上海銀行長崎支店記念館の中に頓珍漢人形が常設展示されました。
それは、亡くなった久保田さんの平和への思いと幻の長崎土産となった人形の魅力を惜しむ人たちが、全国からおよそ800体の人形を探し出して集めたものでした。

10/23「柔道のスポーツマンシップ」

47年前のきょう??昭和39年10月23日、
日本武道館の観客席は一瞬の静寂に包まれ、次いで大きなため息が響き渡りました。
東京オリンピック柔道・無差別級の決勝戦。
オランダのアントン・ヘーシング選手に日本の神永昭夫(かみながあきお)選手が破れた瞬間です。

この大会からオリンピックの正式競技になった柔道。
本家の日本が負けるわけにはいきません。
体重別の軽量級、中量級、重量級ではすべて金と期待どおりの結果。
それ以上に大きな期待がかかったのは無差別級です。
「柔よく剛を制す」・・・。相手の力を利用すれば小さい者でも大きな者を倒すことができる、
という柔道の極意は、無差別級でこそ発揮できるのです。
その重責を担って出場した神永選手は、日本柔道界のエース。
しかしその直前、彼は膝の靭帯を切ってしまいました。
その事実を隠して出場した決勝戦。
体格で遥かに勝るヘーシング選手を相手に神永選手は、
9分近く果敢に攻め続けましたが、最後はへーシング選手の巨体を活かした寝技に敗れ去りました。

その瞬間、神永選手を押さえ込んだヘーシング選手の右手が挙がりました。
勝利に興奮したオランダチームが駆け寄ろうとするのを止めるためです。

だれもが日本の柔道が負けたことを嘆く中、当の神永選手は悔し涙を流すこともなく、
「完敗でしたが、やるだけのことはやりました。
ヘーシンク選手は心技体を備えた立派な柔道家です」と淡々と語りました。

戦い終わって、表彰台の上でにこやかに健闘を讃えあい、固く握手する二人。
神永選手は試合に負けはしましたが、
それは日本の柔道が負けたのではなく、日本の柔道がスポーツとして国際化したという証なのです。

10/16「サルが恋した男」

幸せの島と書いて「幸島(こうじま)」??
宮崎・日南海岸の沖合にある無人島で昔から幸せに暮らしているのは、野生のサルたちです。

昭和28年、1匹の小ザルが浜辺でイモを洗って食べ始めたのをきっかけに、
ほかの子ザルたちも真似始め、次第に群れに広がっていきました。
その行動は「文化をもったサル」として世界の動物学者の注目を集めます。
当時、京都大学理学部動物学科の学生だった吉場健二(よしばけんじ)さんもその一人。
彼は昭和33年に幸島を訪れ、
島にあるボロボロの小屋に独り泊まり込んでサルの生態調査を始めました。

毎日サルを追って観察を続けるうち、
一匹の雌ザルが吉場さんの足元ににじり寄ってくるようになりました。
やがてそのサルは吉場さんの肩に上がってくるほどになついてきます。
しかし何か食べ物をねだるわけでもなく、ただ彼にくっついているだけで幸せという雰囲気。
この雌サルに慕われながら、吉場さんは2か月間、幸島で研究を続けました。
その後アジア各国でサルの調査を続けながら研究者としてのキャリアを積んだ吉場さん。
再び幸島を訪れたのは6年後です。

待っていたのは、かつて彼に恋した雌ザル。
あのとき以来、島にやってくる研究者のだれにもなつかなかったのに、
6年ぶりに吉場さんの姿を見ると興奮しながら飛びついてきたのです。
肩の上に乗ってしがみつく雌ザルのせいで泥だらけになった吉場さんのシャツ。
その様子をニコニコ笑いながら見ているのは、新婚早々の吉場夫人です。
「私は知りませんよ。この人にシャツを洗ってもらったら? この人、洗うことがとても上手なんでしょ」
「この人」とはもちろん雌ザルのこと。
じつは幸島で最初にイモを洗って食べた小ザルは、この雌ザルだったのです。

10/9「被災地の空を舞った絆の翼」

今年の夏、青森県三沢市(みさわし)の上空を一機のプロペラ機が飛行して大きな歓声に包まれました。
その飛行機は、初の太平洋無着陸横断飛行を成功させたミス・ビートル号を復元したものでした。

今から80年前の昭和6年、日本の新聞社によって太平洋無着陸横断飛行に懸賞金がかけられ、
二人のアメリカ人パイロットが挑戦することになりますが、
離陸地点として選ばれたのが三沢の淋代海岸(さびしろかいがん)でした。

この頃、日本は満州事変を起こし日米間は険悪な状況で、
二人のパイロットも当局の厳しい監視を受けますが、
そんな中、三沢村の人々は、青年団が砂浜に厚い杉板を並べて滑走路を造るなど献身的に協力。
10月4日に淋代海岸を飛び立った飛行機は翌、5日にワシントン州ウェナッチ市の飛行場に
胴体着陸し、41時間13分の太平洋無着陸横断を見事成功させたのです。

歓迎のパレードが盛大に行われる中、二人は三沢の人々の親切を伝え、
機内食にと持たされた赤いリンゴが話題になりました。
実はウェナッチはリンゴの大産地だったのです。
これが縁で交流が生まれた三沢市とウェナッチ市は、50年後の昭和56年に姉妹都市となりました。

そして、太平洋横断80周年の今年に向けて、
機体の復元など両市の多くの人々の協力のもと準備が進められました。
東日本大震災の発生で中止も検討されましたが、被災地を勇気づけたいと
真っ赤な機体のミス・ビートル号が三沢の空を舞ったのです。

その翼は、時を超えて結ばれた人々の絆でした。

10/2「煎餅が支える鉄道」

千葉県の小さな町を88年前から走るローカル鉄道「銚子電鉄」。
全長わずか6.4キロ。走っている電車は、全国で使い古された車両を安く買い取ったもので、
自転車にすら追い越されてしまうほどゆっくりと走る、のんびりした鉄道です。
ところが、地域社会の移り変わりの中で、全国の多くのローカル鉄道は、
利用客の減少で赤字を抱えるようになっていきました。
銚子電鉄も例外ではありません。

平成18年。とうとう車両を法定検査する費用が足らなくなりました。
期限内に検査して修理できないと、電車を走らせることはできません。
鉄道存亡の危機です。そこで銚子電鉄は会社のホームページにこんなメッセージを出しました。

「電車の修理代を稼がなくちゃいけないんです。濡れ煎餅を買ってください!」

濡れ煎餅とは、銚子の町の主要産業である醤油の美味しさを活かした軟らかい煎餅です。
銚子電鉄では鉄道の赤字を埋めるために、11年前から副業として濡れ煎餅を製造し、
駅の売店などで細々と売っていたのです。

それにしても、企業が恥を忍んで倒産の危機を
ストレートにホームページに訴えるなど、通常では考えられないことです。
でも、寄付や募金に頼らずに、鉄道マンたち自らが、
煎餅を焼いて売るという努力で困難に立ち向かおうとする姿勢は、
インターネット上で多くの人々の心を打ちました。

ホームページでの発表から2週間後。
それまで1日に10セットもなかった煎餅の注文が、全国各地から1万件を超えたのです。
電車の修理代が捻出できたことは、言うまでもありません。
そして現在も、運賃収入を4倍も上回る濡れ煎餅の売上げが、
銚子電鉄の毎日の安全運行を支えています。

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