2011年11月アーカイブ

11/27「日本の吹奏楽の始まり」

幕末の文久3年、イギリスの艦隊が鹿児島湾に侵入し薩摩藩を砲撃。
薩英戦争が勃発します。
薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦(なまむぎ)事件が引き金となった戦いでしたが、
薩摩藩はこの戦いで西洋社会の軍事力を痛感し、
攘夷から開国論へ変わると、イギリスに急接近して明治維新へと大きく踏み出します。

そしてもうひとつ、この出会いから生まれたのが音楽の交流でした。
実は薩摩藩は、戦いの中でイギリス軍の軍楽隊の演奏を耳にして関心を持ち、
後に指導を求めたといわれます。
その本格的な取り組みが明治2年の軍楽伝習隊の派遣で、
横浜に駐留していたイギリス歩兵隊第10連隊第1大隊軍楽隊の軍楽長、
フェントンに30名余りの若き薩摩藩士が指導を受けるのです。
フェントンは大変熱心に指導を行い、伝習生達もそれに応えて猛練習を重ねました。

注文していた楽器がイギリスから届くのは翌年のことですが、
それからわずか40日ほどで、野外音楽堂で第1大隊の軍楽隊と一緒に演奏会を開き、
見事な演奏を披露して、集まった人々から拍手喝采を浴びています。
かつて生麦事件が起きた横浜の空に、
イギリスと薩摩の軍楽隊が奏でる音楽が共にこだましたのです。

戦いを乗り越えて新たな時代に向かう人々の熱き息吹。
それが日本の吹奏楽の始まりとなりました。

11/20「君主を養う家臣たち」

福岡県の柳川を治めていた立花宗茂。
彼は西軍の豊臣方として関ヶ原の戦いに臨みますが、
戦は徳川方・東軍の勝利で幕を閉じ、立花藩は取り潰されました。
戦国時代では、藩を失った家臣たちは主君のもとを去り、再就職先を探すことが一般的でした。

しかし宗茂の家臣たちは、いくら宗茂がほかの奉公先を探すように諭しても
「私の主君は殿だけです」と食い下がって離れず、
柳川を追われて京に行く宗茂に付いていく、と言うのです。
主君といってもいまの宗茂は無職。家臣たちを養えるはずがありません。
ところが家臣たちは、だからこそ何もかも失った宗茂を自分たちが支えていこう、と考えたのです。
こうして一行は京へ出て、さまざまなことをしながら生活費を稼ぎました。
翌年には江戸に出て小さな寺にやっかいになり、
ここでも彼らはそれぞれ生活費を稼ぐために必死になって働きます。
ある者は虚無僧姿で尺八を吹いて流しながら托鉢をして歩き、
ある者は家の建て普請に加わっての人足仕事。そうして宗茂を養って暮らしたのです。

やがて、そのことは江戸中の評判になり、江戸城にも伝わっていきます。
関ヶ原では敵方だったとはいえ、
宗茂が義に厚く家臣から慕われている人物だということは家康も認めていました。
いま江戸城下でその宗茂を家臣たちが養っている……
それほどまでに部下に慕われている宗茂の人柄を、徳川幕府は見過ごすことはできませんでした。
宗茂は徳川幕府から奥州に領地を与えられて大名に返り咲き、やがて柳川に移りました。

関ヶ原で敗れた身でありながら、再び元の領地に戻れたのは、立花宗茂ただ一人です。

11/13「沖縄のD51」

沖縄県那覇市の与儀公園。
その公園の片隅に蒸気機関車D−51(デゴイチ)が展示されています。
平成15年にモノレールが走るようになるまで、沖縄は全国で唯一、鉄道がなかった県。
D-51が走ることなどなかったはずなのに、なぜここにあるのでしょう?
話は昭和47年に遡ります。

沖縄の本土復帰と国鉄100年を記念し、
北九州市の当時の国鉄門司鉄道管理局の職員有志が、沖縄の子供たちを福岡に招くことにしました。
そのとき那覇市内の小学生72名が招待され、国鉄職員宅でホームステイしながら、
8日間の楽しい生活を送りました。
初めて見る九州の自然や温かく迎えた里親の心遣いに子供たちは感激しましたが、
とりわけ心を奪われたのは、初めて身近に見た巨大な蒸気機関車の迫力。
眼を輝かせて食い入るようにみつめる子どもたちが
「沖縄の友だちにも見せてあげたい」と言い出したのです。
それを聞いた国鉄職員たちは、鉄道のない沖縄の子供たちのために、
九州を走り続けた蒸気機関車をプレゼントしようと思い立ちました。

ところが、鹿児島から海上600キロを隔てた那覇へ重さ90トンの機関車を運ぶには、
高度の輸送技術と莫大な費用がかかります。
でも、この計画の話が広がると、経験深い輸送業者が協力を申し出、
また国鉄職員はじめ全国から1400万円という善意のカンパが集まり、
機関車の輸送が実現したのです。

昭和48年3月に与儀公園でD51がお披露目されたときには、それを一目見ようとクルマが渋滞。
沖縄の大人も子どもも熱狂的に歓迎したそうです。
鉄道がない沖縄にいまも大切に保存されているD51には、
九州の大人たちと沖縄の子どもたちの心温まる友情が込められているのです。

11/6「日本近代医学の父、ポンペ」

幕末、幕府は西洋式の海軍の創設を目指して、
長崎に海軍伝習所(かいぐんでんしゅうじょ)を開設します。
ここに医学の教授として招かれたのがオランダ海軍の若き軍医ポンペでした。

長崎奉行所に医学の伝習所が作られ授業が開始されますが、
日本人学生は医学以前に西洋科学の知識も無く、文化の違い、言葉の壁もありました。
しかしポンペは怯むことなく、基礎から一歩一歩、
学生達に分かるように噛み砕いて根気強く教え、医学全般の指導をたった一人で行いました。

また、医師として診療にも取り組み、コレラが発生して長崎に蔓延し多数の死者を出した際には、
学生達を率いて日夜治療にあたり、多くの命を救ったといわれます。
ポンペは貧しい患者は無料で診察し、武家も町人も、西洋人も日本人も一切区別しませんでした。

幕府は、病院の必要性を訴えるポンペに応え、長崎に養生所を開院。
これが日本初の西洋式近代病院で、今日の長崎大学医学部のルーツとされていますが、
その長崎大学にポンペの言葉が伝えられています。

「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。
ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。
もしそれを好まぬなら他の職業を選ぶがよい。」

ポンペに学んだ学生達は日本の近代医学の礎として活躍。
ポンペが伝習所で初めて授業を行った11月12日は近代西洋医学教育の始まりの日とされています。

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