2011年12月アーカイブ

12/25「年賀状の復活」

年賀状の無いお正月。
自粛が呼び掛けられていた戦時中はそれが当たり前の風景でした。
終戦後も社会の混乱が続き、年賀状の復活は進みませんでしたが、
昭和24年にお年玉付き年賀葉書が登場して、年賀状は飛躍的な復活をとげます。
実は、お年玉くじ付きの年賀葉書という画期的なアイデアは、一人の男性が思いついたものでした。

当時、大阪で洋品雑貨の会社を経営していた林正治(はやし・まさじ)氏で、
見本の葉書や宣伝用のポスターを作り、お年玉の賞品まで考えて、郵政省に提案したのです。
これに対して、厳しい赤字に悩み、郵便利用を増やす呼び水として
年賀状の復活を考えていた郵政省も会議を開いて検討しますが、
満足に食べられない時代に、送った相手にくじが当たるなど、
そんなのんびりしたことができる状態ではないと、当初は反対意見が強かったといわれます。
しかし「こんな時代だからこそ夢が必要」と林氏のアイデアが採用され、
お年玉付きの年賀葉書が誕生することになったのです。

当時、新聞やラジオでは、戦争で離れ離れになった肉親や友人、
知人の消息を求める尋ね人の掲載や放送が盛んにおこなわれていました。
林氏は後に、「年賀状が復活すればお互いの消息がわかると思ったのが最初の発想です。」
と語っています。

人と人を結ぶ絆となった年賀状。
それから60年余り、間もなく訪れるお正月も沢山の絆が結ばれることでしょう。

12/25「年賀状の復活」

年賀状の無いお正月。
自粛が呼び掛けられていた戦時中はそれが当たり前の風景でした。
終戦後も社会の混乱が続き、年賀状の復活は進みませんでしたが、
昭和24年にお年玉付き年賀葉書が登場して、年賀状は飛躍的な復活をとげます。
実は、お年玉くじ付きの年賀葉書という画期的なアイデアは、一人の男性が思いついたものでした。

当時、大阪で洋品雑貨の会社を経営していた林正治(はやし・まさじ)氏で、
見本の葉書や宣伝用のポスターを作り、お年玉の賞品まで考えて、郵政省に提案したのです。
これに対して、厳しい赤字に悩み、郵便利用を増やす呼び水として
年賀状の復活を考えていた郵政省も会議を開いて検討しますが、
満足に食べられない時代に、送った相手にくじが当たるなど、
そんなのんびりしたことができる状態ではないと、当初は反対意見が強かったといわれます。
しかし「こんな時代だからこそ夢が必要」と林氏のアイデアが採用され、
お年玉付きの年賀葉書が誕生することになったのです。

当時、新聞やラジオでは、戦争で離れ離れになった肉親や友人、
知人の消息を求める尋ね人の掲載や放送が盛んにおこなわれていました。
林氏は後に、「年賀状が復活すればお互いの消息がわかると思ったのが最初の発想です。」
と語っています。

人と人を結ぶ絆となった年賀状。
それから60年余り、間もなく訪れるお正月も沢山の絆が結ばれることでしょう。

12/18「八雲が愛した熊本」

熊本の街に縁が深い文学者といえば、夏目漱石と小泉八雲が挙げられます。
どちらも明治時代に英語教師として第五高等学校??いまの熊本大学に赴任。
数年を熊本の街に暮らしています。

この二人を比べてみると、漱石が熊本の地をたいそう気に入って、
名作『草枕』や俳句など、熊本を舞台にした多くの作品を発表しているのに対して、
小泉八雲は赴任してきた熊本という土地をあまり気に入ってなかったようです。
実際、八雲が本国イギリスの友人に送った手紙には、「熊本の街は軍人ばかり。
酒を呑む、喧嘩をする、妻を殴る。驚くほど醜い」と伝えています。
たしかに、当時の熊本は西南戦争の焼け跡で殺風景な街。
日本古来の家並みが消えていたことに失望したのは事実でした。
しかし、赴任してきて2年後。
八雲の熊本に対する思いが一変した出来事がありました。

熊本で殺人事件を起こした犯人が福岡で逮捕され、
現在の上熊本駅に護送されてきた場に偶然居合わせた八雲。
大勢の群衆が駅を取り囲み、犯人は駅前で被害者の遺族の前に突き出されました。
犯人を前におびえて泣く幼子。泣き崩れる犯人。
八雲は、怒りに興奮した群衆が殺到して犯人をこらしめるに違いない、と思いました。
ところが、そうではありません。
群衆もまたすすり泣きを始めたのです。
それは、遺族である被害者の幼子への同情と、
犯した罪の大きさに激しく懺悔する犯人への、言い難い憐れみのすすり泣きだったのです。
「どんなことにもすぐほろりとしてしまう慈悲に富んだ大衆がそこにいた」と、
八雲は随筆に記しています。

それ以来、八雲は熊本という土地、熊本の人々に限りない愛情を抱いたそうです。

12/11「天野博物館」

天野(あまの)博物館??
日本人の名前を冠したミュージアムが、南米ペルーの首都リマにあります。

天野芳太郎(よしたろう)さんは、10歳のときに函館の海岸で4000年前の石の斧、
石斧(せきふ)を発見。それをきっかけに考古学に夢中になりました。
でも、大人になって彼が選んだのは考古学者ではなく、実業家への道。
31歳で南米へ渡り、パナマに百貨店、チリに農場、コスタリカに水産会社、
エクアドルに製薬会社と、手広く事業を広げていったのです。

ところが太平洋戦争が始まると、彼はスパイの容疑でアメリカ政府に拘束され、
すべての財産を没収されて日本に追い返されてしまいました。
それでも諦めることなく、戦後、天野さんはこつこつとおカネを貯め、
53歳にして再び南米をめざします。

ペルーでは天野さんを知る現地の人たちが大歓迎。
だれもが喜んで仕事を手伝い、天野さんはやがて実業家として復活することができました。
そこで得た財産を使って天野さんが行ったのが、古代インカ遺跡の発掘。
およそ10年かけて砂漠の地下からおびただしい数の土器や織物などの副葬品を発見したのです。
そして、これら2万点以上もの遺物を展示するために天野博物館を建設。
ペルーの人たちみんなに国のいにしえの暮らしを間近に見てほしいという思いから、
入場無料にしました。
彼はこの博物館の建設と運営資金のために、自分の経営する会社をあっさり売り払ってしまいました。

南米一の実業家と謳われた天野さんですが、夢はやはり考古学。
数々の事業は、その夢を実現させるための手段に過ぎなかったのです。
1982年に84歳で亡くなった天野さん。
天野博物館はいまも彼の遺志を受け継いで、入場無料を貫いています。

12/4「ドンネル先生」

明治23年のきょう??12月4日は、北里柴三郎がジフテリア、破傷風の血清療法を発見した日です。

北里柴三郎は、ベルリンに留学し、当時のヨーロッパで流行していた
ジフテリアの血清療法に取り組み、医学の世界に一大革新を起こし、
この研究でノーベル賞候補にノミネート。
日本ばかりか世界から近代医学の先駆者として尊敬される偉人なのです。
彼は患者を治療する医者というより、予防医学の学者。
毎日研究室に閉じこもっては細菌を顕微鏡で観察する、
研究一筋の地味な人物像と思われがちですが、
じつは反面、思い切った行動をする大胆な人柄だったようです。

熊本県の小国町で生まれ育った北里は、
かなりの腕白小僧で剣術や槍の稽古に明け暮れていました。
そんな彼が医学博士になったとき、その弟子たちが付けた名前が「ドンネル先生」です。
ドンネルとはドイツ語で「雷親父」。畏敬の念をもって恐れながらも、
反面、義理と人情に厚い北里の人柄に親しみをもっていたのです。

北里は当時、内務省の国立伝染病研究所の所長でしたが、
政府は彼に何の相談もなく突然、研究所の所管を内務省から文部省に移し、
東京大学の付属施設にすると発表しました。
このことで北里は、東大側が選ぶテーマでしか研究活動ができなくなることに激怒。
辞表を叩き付け、対抗して自ら北里研究所を設立したのです。
このとき、彼の弟子の研究者たちも連座して辞表を提出。
なんと所員の全員が彼の新しい研究所へと馳せ参じましたが、
その中に守衛や用務員までが交じっているのを知った北里は、感極まって号泣したそうです。

北里柴三郎は伝染病の予防に一生を貫きましたが、
その周りにいる人たちは全員がドンネル先生??雷親父という魅力に伝染してしまったのです。

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