2012年1月アーカイブ

1/29「雪の殿様」

今から180年前の天保3年。一冊の本が出版されました。
題名は「雪華図説(せっかずせつ)」。
出版したのは、現在の茨城県にあたる下総(しもうさ)の国、
古河(こが)藩の藩主、土井利位(どい・としつら)でした。

20代の若き日に雪の結晶に魅了された利位は、それから20年に渡って観察を続け、
86種に上る結晶のスケッチを一冊の本にまとめたのです。
しかし、江戸時代の昔、雪の結晶の観察は容易ではありませんでした。
整った形の結晶を観察するにはマイナス10度の気温が必要で、
その厳しい寒さに耐えながら、降ってくる雪を黒い布地に受け、
それを形を崩さぬよう黒い漆器に移して、オランダから渡来した顕微鏡で観察し、
スケッチしたといわれます。

大変な苦労を重ねながら、利位はその後さらに97種の結晶を収録した
「続雪華図説」を出版。
この2冊は、今日、日本で最初の雪の自然科学書として高い評価を受けています。
寒さの中で美しい姿を見せる結晶を、雪の華(はな)、雪華(せっか)と名付けた利位。
その数々のスケッチは、着物の模様など様々に用いられて流行し、
利位は庶民から「雪の殿様」と呼ばれて親しまれたといわれます。

実は利位は幕府老中として幕政に辣腕をふるうなど、熾烈な政治の世界でも
活躍した人物でした。
だからこそ、清らかで静謐な雪の世界を愛するもうひとつの人生を、
利位は大切に生きたのかもしれません。

1/22「千町無田」

大分県の飯田(はんだ)高原に千町無田(せんちょうむた)という盆地があります。
「千の町に田んぼが無い」と書いて「千町無田」??文字通り、
ここは100年前まで田畑どころか人も住めない沼地でした。

この千町無田が開拓されたのは明治時代。
筑後川の大洪水で住まいや田畑を失った福岡県久留米の農民たちのために、
村長(むらおさ)の青木牛之助(うしのすけ)が筑後川を遡って土地を探し、
ようやく辿り着いたのが、筑後川の源流に広がる千町無田だったのです。
「ここを皆で一生懸命開拓すれば、再び豊かな暮らしができる」
青木は全財産を費やして開拓の準備をした末、
明治27年に27人の先遣隊を率いて千町無田に入植しました。

ところが、標高900mの飯田高原の厳しい寒さと原野の開墾は、苦難の連続でした。
粗末な掘建小屋には容赦なく雪が入り込み、
食べ物といえば「馬や牛のほうがよほどいいものを食っている」と嘆かせたほど欠乏。
その苦しさから脱落していく人も出ましたが、青木は皆を励ましながら悲惨な暮らしを何年も耐え、
先頭に立って開拓を進めていったのです。

いま、千町無田には美しい水田地帯が広がり、高原野菜やバラなど花の栽培、酪農も盛んです。
ここで働いている人は、この地を切り開いた開拓民の2世や3世たち。
千町無田の開拓に一生を賭けた青木牛之助の威徳、
そして先人たちの苦難の人生は子から孫へと確かに語り継がれています。

1/15「仙台の福の神」

宮城県仙台市では、あちこちの店に同じ人物の写真が飾られています。
ドテラ姿で腕組みし、にこにこ笑っている男性の姿。それは「福の神 仙台四郎」です。

商売繁盛の福の神とされる仙台四郎は、明治時代に実在した人物です。
四郎は幼い頃に知的障害をもち、学校も行かずに毎日仙台の町を歩き回り、
なんとなく人の家に立ち寄り、笑顔を振りまいて、なんとなく帰っていくような少年でした。
でも、そんな四郎を町の人たちは皆歓迎し、もてなしていました。
というのも「四郎が立ち寄った家は栄える」といわれていたからです。

この噂が広まるにつれ、四郎は福の神だと評判になっていきました。
福の神かどうかはともかく、四郎自身はズルい人やウソをつく人、
不正を働く人が大嫌いで、直感的にそれを見抜く力が備わっていたそうです。
だから、そういう人の家にはけっして立ち寄らない??
つまり、誠実で正直な人の家に立ち寄ったからこそ、
その家が栄えるのはある意味、当然のことなのかもしれません。

もうひとつは、四郎の無邪気な笑顔。
どんなに不幸な目に合っている人も、屈託のない天真爛漫な笑顔の四郎が来ると、
まるで幸せそのものがやって来たような気になるのです。
こうやってあちこちの家に幸せを運んだ仙台四郎は、
やがて、ふっと仙台の町から姿を消してしまいました。

ただ一枚だけ残された四郎の写真が、いまも仙台の人たちの間で大切に伝えられ、
その笑顔に元気づけられているのです。

1/8「続きはまた来週」

中高年の方にとって懐かしいもののひとつが、紙芝居。
昭和30年代の全盛期には全国で5万人の紙芝居師がいて、
子どもたちを集めては紙芝居を上演し、水飴などの駄菓子を売って生計を立てていました。
そんな紙芝居もテレビの普及で減っていき、いつの間にか絶滅。と思ったら、
現在も一人、プロの紙芝居師が活躍しています。

杉浦貞(ただし)さん。
昭和55年、当時勤めていた大阪の工場が倒産したのを機に、
家族の反対を押し切り、48歳にして紙芝居師になりました。
最初は趣味のつもりでしたが、紙芝居を休んだ日、
交差点で出会った子どもたちから「小遣いためて公園で待ってたのに」と抗議されました。
また、雪が降ってきたので紙芝居を中断して帰ろうとすると、
百円玉を握りしめた少女が「水飴ちょうだい」と凍えた手を差し出したのを見て、
プロの紙芝居師として生きていく腹を括ったそうです。

以来、子どもたちの喜ぶ顔を支えに毎日、紙芝居とお菓子が入った箱をバイクに積み、
大阪市内の公園や団地を駆け巡り、80歳になるいまも上演を続けています。
いつもの場所にバイクを停め、まずは拍子木を打ち鳴らして子どもたちを集めます。
子どもたちも心得たもので、きちんと行列して順番にお菓子を買います。
そしてお楽しみの紙芝居。
小さな子は前で、大きな子は後ろで見るのが暗黙のルールです。

紙芝居の上演を終えて杉浦さんが言う締めくくりの言葉は「続きはまた来週」。
子どもたちとのその約束を果たすために、杉浦さんはきょうもバイクを走らせているのです。

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