2012年3月アーカイブ

3/25「シドモアが伝えたTSUNAMIと桜」

「波が高さ24メートルはあろうかという真っ黒い壁に変身し、打ちつけるように襲いかかってきた。」
まるで昨年のことのようですが、アメリカの自然科学誌「ナショナル・ジオグラフィック」がこれを伝えたのは明治29年。
明治三陸地震を取材した女性ジャーナリスト、エリザ・シドモアが書いたもので、死者、2万数千人という痛ましい惨状を伝えた記事は、世界に初めて「TSUNAMI」という言葉を紹介したことでも知られます。

二度の来日で3年ほど滞在したシドモアは、武士道を尊び、桜を愛する日本人に感銘を受け、桜の美しさに深く魅了されました。
帰国後は紀行作家として日本の素晴らしさを伝えるとともに、アメリカに日本の桜並木をと長年運動を続け、ついにワシントンのポトマック河畔に桜の植樹を実現させています。

しかしその後、アメリカ議会が日本人の移民を禁止する「排日移民法」を通過させると、抗議を込めて毅然とワシントンを去りスイスに移住。
72歳の生涯を閉じました。

その翌年の昭和4年、日本政府はシドモアの死を惜しみ遺骨を、アメリカ領事を務めた兄が眠る横浜の墓地に迎えています。
桜の植樹から100年の今年、ワシントンでは盛大な桜祭りが開催中で、福島の小中学生による太鼓の演奏会も開かれます。

原発事故の後も練習を続けたという子供達の力強い演奏は、日本を愛し、明治の津波の惨状を世界に伝えたシドモアの魂に届くことでしょう。

3/18「鉄の生き物」

九州には現役で元気に走っている蒸気機関車― SLが1台あります。
それは肥薩線を走る「SL人吉」。
通称「ハチロク」と呼ばれる機関車は大正11年生まれ。
およそ334万キロ走り続けて昭和50年に引退したSLです。
このハチロクが再び復活した裏には、一人の鉄道マンの存在がありました。

昭和50年に引退した後、ハチロクは肥薩線の矢岳(やたけ)駅の構内に留めて展示されることになりました。
これに反対したのが得田徹(とくだとおる)さん。
町と掛け合って屋根付きの展示館を実現させました。
矢岳駅前に住む得田さんは元機関士。かつてこのハチロクを何度も運転しており、自分と同じく引退したSLが雨ざらしで錆び付いていくことに耐えられなかったのです。

得田さんは毎日展示館に通っては、ハチロクに、丹念に油を注して手入れし、磨き上げました。
もう二度と走ることがない、ただの鉄の塊となったハチロクに、なぜそんな無駄なことをするのか、と訝る人もいました。
でも得田さんはいつも、「機関車は鉄でできている生き物だから」と元機関士らしい言葉で答え、動かないハチロクに毎日かいがいしく世話を続けていきました。

それから13年後。九州で観光SL列車の計画が持ち上がり、調査の結果、得田さんの手で大切に保存されていたハチロクが、現役復帰が可能なSLとして注目され、再び甦ることになったのです。

ハチロクはこの春も、まるで生き物の心臓のような鼓動を響かせながら、元気に肥薩線を走っています。

3/11「きずなキャラバン」

昭和41年、「東北の炭鉱跡地に夢のハワイをつくる」というコンセプトで福島県いわき市にオープンしたテーマパーク「スパリゾートハワイアンズ」。ここでの名物は「フラガール」と呼ばれる女性チームによるフラダンスのショーです。

当初は地元の住民から「娘たちが腰を振って踊るなんて」と反対されていましたが、宣伝のために全国を巡業してショーを披露したところ、いわき市に観光客が殺到。いつしかフラガールの踊りは地元が誇る郷土芸能となっていきました。

ところが去年の大震災と原発事故によっていわき市は甚大な被害を受け、スパリゾートハワイアンズも休業を余儀なくされてしまいました。
フラガールの中には家を失ったメンバーもいます。
にもかかわらず、彼女たちはその後も踊り続けました。
かつて初代メンバーが炭鉱の閉山で寂れる町を救うために全国を巡業した歴史に習い、総勢28人のフラガールが再び全国巡業に出たのです。
その名は「きずなキャラバン」。被災者を元気づけ、全国へ福島からの声を届ける役割を担っての巡業です。

地元の避難所への慰問公演を皮切りに、東北各地の被災地、さらに全国各地を回り、公演回数は半年で245回を数えました。
2泊3日で4つの県を回ったり、バスで遠距離の移動をすることも多く、メンバー全員の身体は悲鳴を上げていましたが、ステージの上では笑顔を絶やさず踊り続けました。

全国に希望と絆を伝えていったフラガール。つらくて長かった旅の終わりを待っていたように、彼女たちの本拠地・スパリゾートハワイアンズは先月、復興しました。

3/4「囚われの英語教師」

幕末の日本に一人のアメリカ人青年が上陸しました。
彼の名前はラナルド・マクドナルド。アメリカ先住民族の血筋を引く人物で、自分の祖先のルーツは日本だと信じて、それを確かめたくてやって来たのです。

ところが当時の日本は鎖国で、彼は密入国者として役人たちに捕らえられ、長崎の座敷牢に収容されてしまいました。
そんな囚われの身でありながら、穏やかな性格で礼儀正しく、顔立ちもどことなく日本人に似ているマクドナルドに役人たちは親近感をもち、懇切丁寧な世話をするようになりました。

やがて長崎奉行の肝入りでマクドナルドは英語教室の教師に抜擢。とはいえ、座敷牢の格子越しでの授業でしたが、長崎の出島でオランダ語の通訳をしている14人の日本人に英語を教え、この授業は彼が半年後にアメリカに送還されるまで続きました。この14人の生徒たちの中には、幕末から明治にかけて諸外国との外交で重要な役を果たした人が何人もいます。

いっぽう、アメリカに帰ったマクドナルドもまた議会に「日本は法治国家で、日本人は礼節正しく民度も高い」といった陳述書を提出。後のアメリカの対日政策に影響を与えた功労者として知られています。

ところで、長崎の座敷牢で日本人に英語を教えていたマクドナルドですが、同時に彼自身も日本語を勉強し、和紙におよそ500語の簡単な日本語メモを書き残し、それを死ぬまで大切にしていました。
そのメモによると、「Good」は「ヨカ」、「Bad」は「ワルカ」、「Large」は「フトカ」、そして「Small」は「コマカ」--マクドナルドが覚えた日本語は、見事な長崎弁だったのです。

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