2012年4月アーカイブ

4/29「思い出の空を泳ぐ鯉のぼり」

今年も鯉のぼりの季節を迎えていますが、昨年、季節外れの6月に鯉のぼりを掲げたところがありました。

宮城県石巻市の飯野川(いいのかわ)第一小学校です。
実はこの小学校は、東日本大震災の津波で全校児童108名の7割近くが犠牲になった大川小学校の近くにあり、被害を免れた大川小学校の児童が校舎を間借りして通っていたのです。
そんな子供達を見守っていた、飯野川第一小学校の日野峻(ひの・たかし)教頭の心に浮かんだのが、子供達の健やかな成長を願って掲げられる鯉のぼりでした。

「子供達に元気を取り戻してほしい。亡くなった子供たちにも捧げたい」
大川小学校の児童108名分と、幸いにも被害がなかった飯野川第一小学校の児童159名、全員分の鯉のぼりを揚げたいという日野教頭の思いは、避難所のボランティアなど多くの人々を動かしました。
さらに、ツィッターなどで呼び掛けもおこなわれて、なんと全国からおよそ2,000匹もの鯉のぼりが集まったのです。

そして震災から3ヵ月目にあたる6月11日、飯野川第一小学校では「こいのぼりまつり」が開かれました。
校庭には自衛隊の協力で300匹の鯉のぼりが、また、近くの北上川(きたかみがわ)にもロープが渡されて、たくさんの鯉のぼりが掲げられました。

子供達を思う温かな心が込められた鯉のぼりは、思い出の空を泳ぎ、いつまでも子供達を励まし続けることでしょう。

4/22その町の名は「ゲルニカ」

1937年4月26日、スペイン・バスク地方の古い町が爆撃されました。
当時のスペインは、フランコ将軍の反乱で内戦の最中(さなか)。爆撃はフランコ軍を支援するヒトラーのナチス・ドイツ軍によるものでした。

町の大半が破壊され、何の罪もないおよそ1500人もの住民が犠牲になったといわれる無差別爆撃は、人道上の問題として国際的に非難されました。
そしてこのニュースをフランスのパリで知り、愕然としたのが、バスクの血を引く画家のパブロ・ピカソ。彼はすぐさま絵筆をつかみ、ふるさとの悲劇、戦争の狂気を告発する作品を描きました。
それが、破壊された町の名前をとったピカソの大作『ゲルニカ』です。

『ゲルニカ』はその年のパリ万国博に出品され、ピカソの戦争への怒りと命の尊さを思う気持ちが、見る人を魅了しました。
しかし2年後に第二次世界大戦が勃発。『ゲルニカ』はヨーッロッパの戦火を避けてアメリカに預けられます。
やがてヨーロッパに再び平和が戻りました。
ところが、スペインは戦後もずっとフランコ将軍の軍事独裁体制が続きます。
自由にものが言えない抑圧された国で暮らす人々の心を代弁したのは、やはり『ゲルニカ』でした。

とりわけ、バスク地方の、あのゲルニカの町では、自由を求めるシンボルとして、すべての家庭がピカソの『ゲルニカ』の複製画をコピーしたものや写真を隠し持ち、心の支えにしていたのです。
そして今、ピカソの『ゲルニカ』は、1977年に民主国家に生まれ変わったスペインに引き渡され、ソフィア王妃芸術センターに展示。
この絵の前に人垣の絶えるときはありません。

4/15「子どもたちの詫び状」

いまから75年前のきょう― 昭和12年4月15日。一人のアメリカ人女性が来日し、日本の国民から大歓迎を受けました。

太平洋を12日かけて横浜港に入った客船・浅間丸から降り立った女性とは、ヘレン・ケラー。幼いときの熱病がもとで、目が見えず、耳が聞こえず、口がきけないという三重苦の障害を背負いながら、家庭教師サリバン先生の指導のもとに克服していった人です。

彼女の存在は日本でもよく知られていて、国民的な尊敬を集めていました。
ところが、横浜に入った直後の客船待合室で、ケラーの財布と大切な住所録が何者かに盗まれてしまいました。
このニュースが伝えられると、無名の中年男性から彼女のホテルに被害にあった同額の現金が届けられ、それを皮切りに、全国から次々に現金が寄せられたのです。

それ以上に彼女を驚かせたのは、全国の子どもたちからの詫び状― 謝りの手紙が多数送られてきたこと。同情ではなく謝罪なのです。
悪さをした当人や関係者でもないのに、それに代わって無関係の人間が被害にあった人に謝るなど、ケラーにとっては考えられないことでした。
これを知って彼女は、全国から寄せられたお金も、同情からの寄付金ではなく、お詫びの気持ちだということに思い至ります。

そんな日本人の心に触れて感激した彼女は、寄せられたお金を身体障害者の福祉事業に役立ててほしいと寄付しました。
そして自らは4カ月かけて北海道から九州まで全国各地の盲学校やろう学校を訪れては子どもたちを励まし、また障害者の福祉対策の必要性を呼びかける講演をしていきました。

4/8「青い目の落語家」

幕末から明治にかけては、西洋の技術や文化を教える、いわゆる「お雇い外国人」が多く来日しましたが、その中で落語家になった人がいます。

イギリス人のヘンリー・ジェームス・ブラック。慶応元年に来日し、しばらくは英語教師をしていました。
ところが、日本人に英語を教えるよりも日本語そのものに興味をもったブラックは、そこから日本の話芸である落語にどんどん惹かれていき、ついに33歳にして落語家に弟子入りしてしまったのです。

持ち前の才能と努力が実を結び、やがて当時の一流の落語家たちの推薦で真打ちとなったブラック。羽織袴で高座に上がり、江戸っ子も舌を巻くべらんめえ口調を操る青い目の落語家は、日本の庶民たちに大喜びで迎えられました。

ところが、彼の回りのお雇い外国人たちは日本人を見下したところがあって、お雇いの立場をかなぐり捨てて日本の芸人になったブラックに冷たい視線を向けていました。
そういう差別的な態度に対して、ブラックは「肌が白かろうが黄色だろうが、だれだって同じ赤い血が流れているんだ!」と反発していました。
さらに彼は、シェークスピアやディケンズといったイギリスの古典文学を翻訳し、それを新作落語として寄席で披露。「義理や人情ってやつぁ、どこの国でもいっしょです」と語っては拍手喝采を浴びていました。

また、落語家仲間を集めて日本で初めてレコードの吹き込みを行ったのもブラック。彼のおかげで明治の貴重な名人芸が残されているのです。
明治の日本の庶民に愛された青い目の落語家ブラック。彼はいま、当時のお雇い外国人たちとともに横浜の外国人墓地に眠っています。

4/1「海に咲くサクラ」

千葉県いすみ市、房総半島の太平洋側に、大原(おおはら)という港町があります。
その港に小さな石碑が立ち、そこには「海の中の桜」― 「海中桜の跡」と刻まれています。

江戸時代から大正の終わりまで、この海岸には、実際に海の上に桜の木が枝を伸ばし、春になると満開の花を咲かせていました。
といっても、海の底に桜の木が自生していたわけではありません。
きちんとした港がなかった昔は、舟が海の中に潜む岩を避けて安全に行き来できるよう、目印として杭を岩礁に立てていました。
これが「澪標」(みおつくし)と呼ばれるものです。
ところが、ここ大原では、澪標に生きた桜の木を使っていたのです。

冬に漁師さんたちが総出で山に入り、3本の山桜を切り出して浜まで運搬。
海底の岩に掘った穴に木を差し込みます。
すると、その年の春から4、5年目の春まで、海の上に満開の花が咲いたのです。
それで10年経ったら、また皆で新しい山桜を切り出すという作業を脈々と続けてきました。

なぜそんな大変なことを伝統行事として続けてきたのか?
それは、大原の漁師さんは、海だけでなく、自分たちの村の里山にも親しんでいたからです。
海の恵みをいただいて暮らしている感謝の気持ちとして、山の恵みである桜を海にもたらすようにしたのです。

それにしても、無事に漁を終えた舟に大漁旗をなびかせ、満開の桜に導かれて浜に帰ってくる― それは漁師さんたちにとって、まさに最高の花道だったことでしょう。

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