2013年3月アーカイブ

3/31「ニューヨークのサクラパーク」

アメリカ、ワシントンのポトマック河畔の有名な桜並木は、明治45年に東京市からアメリカに贈られた桜が植樹されたものですが、この時、実はニューヨークにも桜が植樹されました。

当時ニューヨークでは、アドレナリンの発見などで世界的な名声を得た日本人化学者、高峰譲吉(たかみね・じょうきち)が活躍しており、ワシントンへの桜の寄贈でも、東京市に資金援助を行うなど大きな役割を果たしました。

その一方で、日米友好のために取り組んだのが、ニューヨークのハドソン川の記念日に桜を植樹しようという運動で、2,000本の桜を日本から取り寄せますが、途中で船が行方不明になるという不運に見舞われます。
しかし高峰は諦めることなく、ニューヨーク在住の日本人達と力を合わせ、ワシントンに桜が届けられる際に、同じ船でおよそ3,000本の桜をニューヨークに取り寄せたのです。

1912年4月28日、マンハッタンのクレアモントパークで歓迎植樹式が盛大に開かれますが、そこでアメリカのウッドフォード将軍がおこなった挨拶が心に残ります。
「ハドソン川の記念日に多くの国々は軍艦を、名将を派遣して祝意を表したが、日本は軍艦も将軍も派遣せず桜を贈ってきた。軍艦は戦争を、桜は平和を表すという。桜が外国に行って戦闘艦以上の働きをするとは珍しい話ではないか。」

日本人の思いが今も花咲く公園は「サクラパーク」と名を変え、ニューヨーカーに親しまれています。

3/24「戦地に咲く桜」

太陽の「陽」に「光」と書いて「陽光」。これは桜の品種のひとつです。

25年の歳月をかけて陽光を作ったのは高岡正明(たかおかまさあき)さん。高岡さんは昔、愛媛県の青年学校で教鞭をとっていました。
兵隊に行く前の若者たちに軍国教育や軍事教練を行う青年学校。
高岡さんは、生徒たちに言いました。
「日本は絶対に負けない強い国だ。みんな立派に戦おう!」
そして校庭の桜の木の下で記念写真を撮り、再会を誓って生徒たちを戦地へ送り出したのです。

しかし、終戦後に彼の元に届いたのは、生徒たちの戦死の知らせでした。
「とんでもないことを言っていた。俺が生徒たちを殺したも同然だ」
激しい自責の念に苦しんだ高岡さんは、校庭の桜の木の下での再会が果たせなかった生徒たちの供養のために、彼らが散っていった戦地に桜を植樹しようと考えました。
そのためには、どんな気候の土地でも適応できる桜が必要です。
高岡さんは新しい桜を作るために全国を尋ね歩き、品種改良に没頭。
25年の歳月を費やして、ようやく、病気にも強く、厳しい気候にも耐えうる丈夫な品種「陽光」が誕生したのです。

教え子たちが眠る地に、陽光の苗木が植えられていきました。
高岡さんはさらに、この陽光を平和と友好を担う使者として世界各国に寄贈。平成3年に亡くなるまでおよそ5万本の苗木を無償で送り続けたそうです。

この時期、世界各地の思いがけないところに、大きな花びらで鮮やかなピンクの桜が満開になっていたら、それは陽光です。

3/17「最善を尽くす」

「スペシャルオリンピックス」は、知的発達障害のある人たちのスポーツトレーニングと競技会。1968年にアメリカで始まり、現在は世界170の国と地域に400万人のアスリートがいて、世界大会や国内大会、競技会が開かれています。

アメリカでのある競技会の出来事。
陸上・短距離走で9人の選手が白線に並んでいます。
合図のピストルが鳴り、選手たちは一斉にスタート。
しかし、一人のランナーがつまずいて転んでしまいました。
彼の膝は激しく擦りむけ、その痛みと転倒したショックで、彼は自分の感情を抑えられず、へたり込んだまま大声を上げて泣き出しました。

すると、ほかの選手がその泣き声を聞きつけ、一人、また一人と立ち止まり、その選手の元へと戻り始めたのです。
彼のそばにやって来た女子選手がひざまずいて、こう言いました。
「転んでも負けじゃないわ」
そして頬にやさしくキス。
彼は立ち上がりました。
そしてほかの選手たちと手をつないで、いっしょにゴールに向かって歩きだしたのです。
彼らがゴールを踏んだとき、スタジアムの観客全体が立ち上がり、拍手を送りました。

スペシャルオリンピックスでは、成績の如何に関わらず、すべての選手が表彰されます。
ほかの人に勝つことではなく、アスリートが自分の最善を尽くすことを目的としているからです。

3/10「ある米兵の東京大空襲」

昭和20年3月10日は、東京大空襲の日。広島、長崎の原爆に先立つ無差別じゅうたん爆撃によって、死者8万人以上、およそ100万人の東京都民が焼け出されましたが、その中になんと米軍兵士がいました。

彼の名前はレイモンド・ハロラン。東京を焼け野原にしたB29の乗組員でしたが、その2カ月前に日本の戦闘機との空中戦で撃墜され、パラシュートで脱出し、捕虜になっていたのです。

ハロランさんは憲兵隊司令部で拘束され、連日厳しい尋問を受けていましたが、そこで3月10日の大空襲を迎えます。
独房の床の上で手足を縛られたまま寝ていたら、焼夷弾が落ちる激しい音。熱風で独房の屋根が炎上しました。
ハロランさんは死を覚悟しましたが、連れ出されて一命を取り留めます。
しかしその後は、動物がいなくなった動物園の檻に閉じ込められたり、食べ物もろくに与えられないまま強制労働をさせられました。

終戦となって晴れて帰国することができたハロランさん。彼にとって、日本は恐怖と屈辱の思い出しかありません。
しかし、彼は晩年になって日本を訪れています。

平成14年、東京都江東区に市民などの募金で作られた「東京大空襲・戦災資料センター」がオープン。そこにハロランさんの姿がありました。
彼はその場で次のような挨拶をしています。
「私は大空襲の夜を皆さんと共有し生き延びてきました。戦争は勝っても負けても双方の心を深く傷つける。だからしてはいけないのです」
その後、彼は平成23年に亡くなるまで、この施設に寄付金を送り続けたそうです。

3/3「中高生たちが守るローカル線」

千葉県の房総半島を走る「いすみ鉄道」は、全長27キロで14の駅を結ぶ小さなローカル線。沿線の自治体が運営する第三セクターです。

里山や田園地帯をのんびり走り、沿線の住民や観光客の交通を担っていますが、10年前、経営の悪化から廃止が検討されるようになりました。
いすみ鉄道存続の危機に立ち上がったのは、沿線の高校の生徒会。
鉄道が無くなれば、入学志願者の数も減って、将来はその高校も廃校になるかもしれないのです。

生徒たちが始めたのは、駅や列車の掃除。ホームの花壇作りや待合室のペンキの塗り替えなども買って出ました。
さらに、沿線の4つの中学校の生徒会と連携して「中高生いすみ鉄道プロジェクト会議」を結成。各校の生徒代表と鉄道関係者が定期的に集まって、走る列車の中で鉄道支援の方策を話し合うのです。
この会議からさまざまな活動のアイデアが生まれました。
マンドリン・ギター部や演劇部が列車の中で一般乗客を楽しませ、駅のホームでは吹奏楽部の演奏で乗降客を出迎えます。

このような学校の垣根を超えた中高生たちのユニークな取り組みは、やがて観光客や沿線地域の大人たちの共感を呼びました。
そしてその熱意は町役場を動かし、いすみ鉄道は存続することが決定したのです。

その後、中高生いすみ鉄道プロジェクト会議は解散することなく、いまも活動中。地元の鉄道を盛り立てていこうという中高生たちの思いは、これからも受け継がれていきます。

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